予州 一色右馬三郎

20521
予州一色祖 一色右馬三郎を語る
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長福寺一色家過去帳 - むーみん

2017/02/07 (Tue) 10:37:37

長福寺一色家過去帳を見るに、所謂、寺で作成される編年体の過去帳ではないと思われます。

現物は三津屋一色家にあるのではないでしょうか?

寺の過去帳の転記物ではありませんか?少なくても4名から5名の手が入っていると思われます。

第一段階  三津屋一色家に関係する人の戒名を寺か写した。
      
第二段階  第一段階写しに経緯(前文)と解った俗名を付
      け加えた(250回忌の圓明院を追贈した時?異筆)

第三段階  誰かが、〇印を押し、何かと照合した。

第四段階  誰かが、合印を作り、また何かと照合した。

第五段階  誰かが、レ点をつけまた何かと照合した。

このように五人の関与が認められます。

一次段階でなぜ瑞清和尚から始まるますが、この過去帳を作成する時点で三津屋一色家の関係者と認識しているものと思われます。長福寺の前住としてありますので、長福寺の歴代住職を調べれば簡単にわかるでしょう。一色一族か、一色家に引導を
を渡した住職と思われます。

光妙恵大姉は書いた後に追筆したようですね。
飯尾惟清の室と書かれていますので、一色の女の誰かのようです。飯尾姓はこの時代、徳川家の家臣にいたような記憶がありますので調べれば出てくるでしょう。たしか大家の分家だったような・・。

妙弥禅定尼は一色三津屋善右衛門婆と書いてありますので、一色三津屋善左(右)衛門の祖母、すなわち重之の母ではないでしょうか?

となると、隣の、雲州太守義傳栄法大居士は、重之の父の想定
ではないでしょうか。当時の戒名は4文字ですので、「義傳榮法」が元々で、後世に丹波を雲州(出雲)と間違えて送ったと思われます。細かく言うと道号が「義傳」で道号には生前の俗名の一字を採るのがルールですので「義」であいますね。
戒名は「榮法」となります。

重之とされる、「印泉西月居士」も同様に、道号が「印泉」ですので出家した時、印泉をもらい「印泉入道」と呼ばれていたのではないでしょうか?「西月」は戒名です。居士は位号となります。格の高い院号が無かったので、万延元年(1860)子孫の一色範序が250回忌に以前先祖が収めた袈裟を再調して法事を行い、院号の「圓明院」を追贈したのでしょう。この時過去帳に圓明院を加筆していますね。

今、法事でこれをすると、法事代の外に、袈裟代で最低100万円
院号追加で100万円で2~3百万円追加が相場ですから、一色範序は金持ちだったのでしょうね。

最後にこの過去帳が上記の通りであるなら、重之とともに父母も伊予に付いてきたことになりますので、重之は伊予一色家の初代ではなく二代目となりますね。

まず、長福寺の歴代住職で瑞清和尚がどんな人か長福寺で聞く
ことから過去帳の人たちの情報が分るような気がします。

Re: 長福寺一色家過去帳 - 敏衛門

2017/02/07 (Tue) 21:23:32

む〜みんさんこの過去帳は先代一色同族会が長福寺でみつけたものですが読み解くとは流石ですね。

一色右馬三郎の墓は最近まで三津屋の三蔵院宝積寺でした。(現在は西条市墓地整理で旭新開墓地)

三蔵院宝積寺は三蔵師が旧知の右馬三郎を訪ね丹波から三津屋に来て開基したと伝わりますので寺帳は此処が大元ではないかと推測します。

では何故となり村の長福寺に引継がれたのか?

三津屋一色家は早い段階で庄屋職を辞めています、しかし壬生川一色家や周布村一色家は松山藩や西条藩の大庄屋を勤めるなど財力を維持していて特に壬生川一色家主導で長福寺を右馬三郎の菩提としたのではと思います。

三津屋の善右衛門は三津屋一色家が重直の娘の婿として風早二神家から来た人です、子を三津屋一色氏とし善右衛門は三津屋二神家の祖となり現在まで子孫は続いています。

Re: 長福寺一色家過去帳 - むーみん

2017/02/08 (Wed) 05:50:51

と言うことはこの過去帳は正式には長福寺の過去帳ではないでしょうね。

通常、長福寺に菩提が移るのであれば、当時(江戸期)の習慣から

①重之の当初の菩提寺、三蔵院宝積寺が経営管理上立ち行かな くなった場合に同宗に併合される場合(これは寺ごとですね

②子孫が移住の為、寺を替わる場合。

が考えられますが、三蔵院宝積寺が廃寺になった形跡がないので①は考えにくいですね。②は子孫がその後も三蔵院宝積寺の
檀徒であるなら②もなくなりますね。
また①の場合は長福寺側に統合記録が残り、②の場合は宗門帳
に檀徒の受払記録が残りますね。

宗門帳は現在の戸籍の原本ですので、寺は毎日管理更新していました。元々は江戸幕府が庶民管理の為とキリスト教排除の為の制度であり、この住民情報を取り上げるために、明治新政府
は廃仏毀釈の名の元に戸長役場に移し、所謂、壬申戸籍として改編したことは周知の通りですね。

上記の経緯からすれば、重之らの戒名等が分からなかったのか
三津屋一色氏の誰かが、三蔵院宝積寺に来て、過去帳を確認した上で、三津屋一色家の過去帳控として長福寺に奉納したと思われます。重之以前の父母らしきと叔母らしき人の名と坊さんの名があり、善右衛門婆と書いた意味が分かりますね。

三津屋一色家のこの過去帳を写した人は爺婆とその兄妹らしき人と住職の関係と俗名は知っており、戒名だけを三蔵院宝積寺に見に来たとすれば辻褄は合います。

長福寺に一色家の一建立(いっこんりゅう)の寺門がありますが、この棟札に経緯が書いてありませんかね?

余談ですが、長福寺は別の意味で関心のある寺なのです。

この寺は周知の通り元寇の役で名を馳せた、河野通有用の
個人寺ですね。

河野六郎対馬守通有
(1250~1311 7/14)

長福寺殿天心紹普大居士

この時は海印山長福寺とされます。
今の長福寺の寺紋は江戸期の河野家家紋ですから、
通有の時は室町期の河野家家紋を採用していたでしょうが
「古紋」を継承してほしかったですね。


寺を1643年以降東海山に山号を南明禅師が宗派変更とともに
変えたとされますね。
この山号額は一色家の寄進門に掲げられていますので同じころに山門寄進したのではないでしょうか?

寄進は何年とされてますか?

河野一門とされる一柳の殿様の揮毫とされますので、この額の裏にも何か書いてありそうですね。

南明禅師は河野通直四男系、正岡常(盛)元と黒川桃女との間
に生まれていますので宗家河野家への思い入れは強かったと思われます。長福寺本河野系図は彼が色んな古書に当たりながら
書いた形跡があります。「予陽河野家譜」も彼の手が入っているものと思われます。
不思議なのは、牛福通直の死因を「予陽河野家譜」は「病死」とし、「長福寺本河野家譜」は生害(自殺)としていることです。これは生害が正しいのですが、長福寺本の没日は間違いですので、何等かの底書があったものと思われます。

もちろん「河野黒川系図」も「生害」とします。

母親の黒川桃女は福岡県黒崎で死亡していますので、後に南明禅師が供養しています。桃女が福岡に行ったのは、河野家滅亡により行き場を失った、兄弟の黒川五右衛門通貫、と曾我部金右衛門が黒田藩に召し抱えられたことによるものと思われます。黒崎は黒田藩の出城で当時は井上周防守が城主でした。
黒田藩には伊予の残党は結構リクルートされており、黒崎には
久万大徐城主系の大野三兄弟もいました。曾我部は後藤又兵衛らと出奔しています。後藤は後に大坂の陣で名を馳せますね。

伊予の大野、一色が大坂の陣へ行っており、高須賀も同様で、
後藤又兵衛が大将の一角ですので、豊臣方にあれば、彼の配下
にあった可能性が高いのです。

一色の大坂へ行った二人は、豊臣方ですか?徳川方ですか?

伊予は狭い地域ですので、系図上はあちこちで色んな家と出くわせます。

「な~んだ、親戚かい?、なら一杯呑むか!」となります。笑



Re: 長福寺一色家過去帳 - 一色敏衛門

2017/02/08 (Wed) 13:03:18

三津屋善右衛門(重元)は風早二神家の人であり右馬三郎の長男重直の娘婿で、「善右衛門婆」とは右馬三郎の孫娘で重直の娘にあたるのでは?

一色党が大坂の役では青木一重軍として参戦したと伝わります。
それにしても此の時代の事を推理するのは簡単ですが真実にせまるのは本当に難しすぎます。

Re: 長福寺一色家過去帳 - むーみん

2017/02/08 (Wed) 17:57:10

そうですね。憶測でものを言っても仕方ありません。

だから史料集めが大変ですね。私もあくまで古記録に基いて話を展開しようとしています。ただ、古記録が間違いであればその部分は間違いとなりますので衆知の意見が欲しいところです。

さて善右衛門婆を「右馬三郎の孫娘で重直の娘」と想定されていますが、この人は重之の前の前に書かれており、しかも天正14年卒去とされますので、重之よりも重直よりも相当早く死んでいますね。幼子であれば「婆」ではなく、「嬰児か童女」と表現する筈なのですが。謎ですね。

それから、重之公の孫、重光、重政が大坂夏の陣に出向いたとする伝承も、少し混乱しているようですね。

下記のように書いてありますが、一体出典は何だったのでしょうか?


【 川の下方(東側)に東西15間、南北33間の船溜りがあった。ここは元和元年5月 8日に重之公の孫、重光、重政が二百余名を率いて大阪夏の陣に向かった港で ある。】

混乱①元和元年5月8日は、前日には大坂城は落城しており、8
   日に出ても間に合いません。

混乱②「青木一重軍として参戦」とのようですが青木一重は
    夏の陣には参戦していません。

混乱③元和元年5月8日は実際にな無く、正確には慶長20年5月
   8日でなくてはなりませんが、後世に逆算して元和であろ   うとしたものと思われます。

   元和と改元されるのは戦い
   が終わった2ケ月後の7月13日です。一次史料に基かず
   に後世に編纂されたものから作成していくとこのような
   間違いが散見されますので、その資料は信頼性は極端に
   低くなりますね。東大史料編纂所も、愛媛県史も山口県
   文書館等の権威あるところでさえ、編年目次では年中改   元を無視しますので、それらを引用した学者も大威張り
   でまちがって書きます。

細かいことを言うと上記の③点が間違いですが、夏の陣には出かけて、若干25才で大坂の陣地で5月12日に討死していますので、5月7日にはもう雌雄は決していますので、青木一重の陣ではなくても、豊臣方の誰かの陣に居て、徳川方の残党狩で殺されたと思われます。ただこちらは推定です。

Re: 長福寺一色家過去帳 - 一色敏衛門

2017/02/08 (Wed) 23:06:32

むーみんさんは「憶測でものを言っても仕方はありませんが」とおっしゃいましたがこの掲示版では良いと思います、他人の誹謗中傷さえなければ・・所詮数学のように正確な答えは歴史ではめったにありえないと思っております特に一般の家系では。
伊予守護であった河野家のことでさえも僅かな一次史料をもとに各種ある伝承で皆さん伊予河野家を語り合っているわけですから。

本題ですがむーみんさんQ&Aでお答えします。出来ましたら(次回からは一問一答でお願いします)

まず善右衛門婆を「右馬三郎の孫娘で重直の娘」と想定されていますが、との問ですがその通りです、私が善右衛門のキーワードで木屋一色系図から直感で勘違いをしておりました答えは分かりませんが何故か当時の景色は見えるような気はしますと訂正致します。

◎「重之公の孫、重光、重政が大坂夏の陣に出向いたとする伝承も、少し混乱しているようですね。」にお答えします。

●全然混乱しません、なぜなら下記の通りです。

◎混乱①元和元年5月8日は、前日には大坂城は落城しており、8
日に出ても間に合いません。

●その通りです、なぜなら遅れて行ったからです。

◎混乱②「青木一重軍として参戦」とのようですが青木一重は夏の陣には参戦していません。

●その通り一重公は夏の陣には参戦していませんが養子の駿河守正重が青木軍の総大将として豊臣勢として参戦していますそのような事から青木一重軍と書いた訳ですが。文章の齟齬はお許し下さい。

◎混乱③元和元年5月8日は実際にな無く、正確には慶長20年5月
   8日でなくてはなりませんが、後世に逆算して元和であろうとしたものと思われます。

●細かいですね!どの文面を見ておっしゃてるのかわからないのですが右馬三郎400年祭の資料であれば極最近に参加者に配布する資料として作成したものかもわかりませんが・・・

◎細かいことを言うと上記の③点が間違いですが、夏の陣には出かけて、若干25才で大坂の陣地で5月12日に討死していますので、5月7日にはもう雌雄は決していますので、青木一重の陣ではなくても、豊臣方の誰かの陣に居て、徳川方の残党狩で殺されたと思われます。ただこちらは推定ですとの最後の書き込みにお答えします。

●むーみんさんはっきり申しまして推測の幅が狭すぎます、重政は残党狩りにあい殺されたのではなく切腹と伝わります。
 世の中今も昔も推定外、想定外ありますので殺す殺された等恐ろしい推測はいくら昔の人であろうと間違っていると化けて出てくるかもしれませんのでご用心めされ下さい。

冗談はさておき時々歴史の日時にこだわる方がいますが何百年も昔の事ですので基本推定、推測しかないのではないでしょうか?








Re: 長福寺一色家過去帳 - むーみん

2017/02/09 (Thu) 08:48:50

別に、同好の歴史好きな一色さんと喧嘩調で詰問する気はありませんのでQ&A形式で一問一答式はそぐわないと思っています。前後の認識を示させて頂いた上で混乱しそうなのものは①
②③の形式で独立させてあります。

何か批判されているように受け取られたら困るのですが、一色ブログで間違いや追記があれば、教えて下さいと一色昇二さんが書いてますので、間違いと思われる部分のことを書いています。昇二さんと敏衛衛門さんが、同一人物か否かは当方はわかりませんので、同一系のブログと判断し、こちらに書いています。

 元和元年5月8日は【龍敬神社】の説明で書いてありましたので、
 改元資料と確認した上で説明しています。

それから、

「●その通りです、なぜなら遅れて行ったからです」

と「重光、重政が大坂夏の陣に出向いたとする」話の
答えですが、これは「後出しジャンケン」です。

一色ブログと他の歴史書を見ながら見解を述べていますので、
今回のUP分は初めてではないでしょうか?

出来れば、小出しではなく全部をメールして頂けませんか?
でないと情報の共有は出来ないと思われ、今後も間違った解釈
をしかねません。

別件ながら、「青木民部少輔組高付」が慶長18年1月10日に提出されているが、背景がよく分からないと記されていますが、
これは全国の家康配下に対し、分限録を駿府に在った、徳川家康の重臣本多正純が提出させた分限録と思われますので、所謂、1月10日現在で前後の変動は認識していないと思います。
青木領一万千三百石で届けでたものと思います。

長州毛利家も同様に、慶長18年、

「閣老本多正純の意見により両国の石高を三十六万九千四百十一石三斗一升五合と幕府に上申す。これより公称石高となる。
内、長府領高四万七千八百二石六斗四合、岩国領高三万七千百二十九石二斗三升 【草舎年表】」
と申告し公称石高となります。

これらを根拠に後に徳川幕府は普請の割り当て額を決めたものと思いますので、各大名は少なめに申請してあると思います。

何百年前のことであっても同時代の周りの関係者を探索すると
史実が見えてきますので、推定の幅は少なくなりますね。

愛媛県の河野関係はおっしゃる通り、僅かな一次史料と後世の編纂物で河野家賛美をしていますので、これは「河野教」の教徒の人たちですね。伊予史談会の景浦親子は冷静な判断をしていますので河野教徒からは未だに、批判を浴びていますね(笑)
現在の伊予史談をリードする人たち(名は秘します)が実態は分っているのでしょうが、講演すると河野家ヨイショが多いですね。あれは、小遣い稼ぎには欠かせませんからね(笑)

まあぼちぼちまいりましょうか?
私は小遣い稼ぎにはならないのですが(大笑)

Re: 長福寺一色家過去帳 - 敏衛門

2017/02/10 (Fri) 12:51:04

むーみんさんは小遣い稼ぎでなく歴史本でも書いて大稼ぎですか?
私は歴史ガイドをして小遣い稼ぎをしたいと思っておりますが其の世界も縄張りがあるようで組織に属さないと一匹狼ではすぐに潰されてしまいますね!

本題ですが一色昇ニさんと敏衛門は勿論別人です。

前項の西条一色系図伝略記は長福寺所有で私物ではありませんので公開はご容赦下さい変わりと言っちゃなですが南明禅師の一色一兵衛に宛てた法号を貼ります。(長福寺発行の南明禅師より抜粋)
一兵衛は周布の初代庄屋で三津屋同様長福寺の隣村です、長福寺は北条ですが当初は北条の領主も一色氏でした。
三津屋・壬生川・明里川・周布・北条辺に勢力を張っていたようです。





南明の書 - むーみん

2017/02/11 (Sat) 07:10:16

南明禅師の法号書のUP有り難うございます。

よく分からないので教えて下さいませんか?

現在、市の重要文化財となっている、南明禅師の手になる「長福寺本河野系図」の写真を見ているのですが、ご提供の法号授与の南明書と、南明禅師自筆とされる、同河野系図の筆跡が違う感じがするのですが、法号の書は「原本」でしょうか?

写しのような気がしますが、よくは見えませんがハンコまでついてあるので、よくわかりません。

ハンコですが、重要文化財の最初と最後のページに南明の個人印が2種押されていますが、この法号書の印とどちらか合ってますでしょうか?

細かいことが気になるくせですみません。

Re: 長福寺一色家過去帳 - 敏衛門

2017/02/12 (Sun) 12:58:55

一兵衛宛の法号は南明禅師41歳の時に書かれました、遺訓は69歳南明禅師人生最後の年京都で書かれた書です。
当たり前ですが年齢によて字風はかわりますよね!

Re: 長福寺一色家過去帳 - むーみん

2017/02/12 (Sun) 15:04:50

なるほど、年齢による字体の変化なのですね?

長福寺本河野系図は何歳の時の作でしょうか?

「河野系図」と「遺訓」の南明の運指は同じですが、「法号」の運指とは異なりますね。

系図と遺訓の南明花押は違いますが、花押は新規一転切り替えることがありますので、何パターン在っても良いのですが、
書風は変わっても運指はあまり変わらないのですが、南明禅師はやっかいですね。

時系列に見て行かないと分かりませんね。南明禅師は楷書体と草書体を使い分けますので、それぞれに特徴がありますね。

年代毎に違う見本は他にないのでしょうか?

Re: 長福寺一色家過去帳 - 敏衛門

2017/02/12 (Sun) 15:34:46

ご存知のように「予章記」「河野系図」は得能弥太郎が安芸国から伊予へ持ち帰り黒川通廣未亡人妙寿尼の元で病死し同尼に託しさらに娘の桃女に託し其れを一子南明に伝えた河野本流のものですね。
南明が現本が蝕まれ朽ちてきたので写したのが33~37歳慶安年中の1648~52年と言われています。
筆耕生に命じて写したとも言われています。

長福寺本河野系図 - むーみん

2017/02/13 (Mon) 17:08:29

中世の伊予史はよく分からない!

この予章記や河野系図が「河野本流」と断じる根拠は何か教えて頂けませんか?

確かに、長福寺本は多く転写されて、現在出回っている河野系図の8割方がこの形式を踏襲します。よって伊予史談会は「流布本」と分類しますね。所謂、孝霊天皇を元祖とする河野系図ですね。これに対しニギハヤヒを元祖とする、河野系図が別にあり、こちらも同じく河野本流を主張する、松山の「天徳寺本河野系図」ですね。途中の登場人物は殆ど重複しますが、元祖が違うと後世の子孫たちの展開が変わっていきますね。

長福寺本と言われるから、昔から通有時代の長福寺にから伝来するものを、南明禅師が転記編纂したものと今まで思っていました。今回得能弥太郎なる人物が隠遁の地竹原から伝来の「予章記」「河野系図」を持ち帰ったことで南明禅師が修復再調してくれたものとされますね。

となるとこの本の出所が気になります。

得能弥太郎とは一体どのような人物なのでしょうか?
得能家は河野四郎通信の庶子家と伝わりますが、この弥太郎とは得能家の中でどの位置に属していたかわかりませんか?
弥太郎は得能家の通り名と思われます、諱は分りませんか?
帰農したのか後に浮穴清七と改めたとは思いますが。

牛福通直に臣従して竹原までいって、通直没後伊予に帰ったとしますが、なぜこの本流とされる河野系図は最後の殿様、牛福通直公の命日と法名が系図では違うのかわかりません。

一般的には牛福通直の命日は

天正15年7月14日とされます。これは「萩藩閥閲録」によると、7月13日に生害(自殺)したので、母親が慌てて、湯月城から渡海し、葬儀を14日にしたからとし、「予陽河野家譜」や母親が翌年届出た「高野山上蔵院過去帳」も14日とします。現在流布される多くの河野系図は14日で統一されます。
これに対し、通直の命日に立ち会ったであろう得能弥太郎が持ち帰った「河野系図」では天正15年3月7日卒と書かれてあるようなのですが?底本が間違っているのでは?と思います。

法名も、竹原長生寺では、『長生寺殿月渓園公大禅定門』とします。遺髪を伊予の天徳寺に持ち帰って法要をし直すと『天徳寺殿月渓宗園公大居士』と寺殿号を変更してしまいます。これに対し、長福寺では『長生院殿玉峯宗光大居士』としています。法事の度に戒名(あの世の名前)を変えられると閻魔大王は困るのですが(笑)

長福寺の河野系図は黒川家と正岡家用の系図と思われます。

河野得能家の河野系図は天徳寺本のようです。こちらの方が古いですね。太平記の底本とされる書を秘蔵していることからも天徳寺史料の方が信頼性が高いとされる所以です。

室町末期に河野家本流としての系図は「高野山上蔵院本」です
が、これは奉納の為、室町末期に転写したものと思われます。

牛福通直から譲りうけたとする河野本流本は「築山本」とされます。

それぞれ皆中身がバラバラで我々を悩ませます。

南明禅師については、黒川家をもう少し掘り下げないとわかりません。

本来は同じであったものが、後世に色んなものが付け加えられてぐちゃぐちゃになった感じですね。

伊予河野一門は訳が分からない所以です。

Re: 長福寺一色家過去帳 - 敏衛門

2017/02/13 (Mon) 22:26:05

何故南明禅師伝来の「河野系図」・「予章記」が世にある十八将家のものと違うかはわかりません「本流」といわれるのは59代通直の所有物であったからではないでしょうか?

河野一族の得能弥太郎とは57代河野通直娘で黒川通廣の未亡人妙寿尼と同じ乳母に育てられたとありますがそれ以上のことはわかりません。
得能の領地は戒能道後の南隣にある樽味で道後湯築城まで徒歩10分といった所です。
得能弥太郎について詳しいことがわかったら教えて下さい。
弥太郎(浮穴清七)は59代通直に侍して安芸竹原に隠退したが天正15年通直の没後伊予に帰りその時持ち帰ったのが河野本流の家系図と「予章記」です。
その後弥太郎は妙寿尼の小松町大郷(おおご)香積庵で病死したと伝わります。
・・・む〜みんさん以外に見ている方がいるかもしれませませんので重ねて書いています・・・

弥太郎は系図類を妙寿尼に託し其の後娘の桃女に託しました。
同女は其れを子の南明に伝え虫ばまれて朽ちた為慶安年中1648-52年に改写し現在に至るわけです。

57代通直の血を引継ぐ正岡常元とやはり通直の血を継ぐ南明の母桃女と黒川正岡系河野家ご一家オールキャストとですね!
南明は予章記と共に秘蔵しておけば後世、寺門建立の一助になると河野通宣・通直の書跡三筆を南明の弟子玉潭に一時預けることなど河野系図巻末 に記されているのですが内容や現在何処にあるのかはわかりません。



長福寺本河野系図 - むーみん

2017/02/14 (Tue) 12:20:58

59代通直の所有物とは思えません。

五十九代通直とは自害した牛福通直のことと思われますが、牛福没後、跡目として、宍戸景好を河野家養子としますが、彼は建前上、河野通宣の子、河野大蔵越智宿祢通昭の子と養子縁組で牛福通直の養子ではない形をとっています。よって河野宗家は秀吉へ河野の名をはばかり、室家の名、築山を名乗りますのでこちらに河野宗家の系図と什器が引き継がれたとされます。こちらが、築山本予章記や筑山本河野系図とされるものですね。

得能弥太郎なる人物は不明です。

河野徳峰氏が根拠とした出典が知りたい所です。得能家の通名が「弥太郎」と思われますので、諱(俗名)が分からないと人物が特定できませんね。牛福通直没後、伊予に戻った人たちも多く、天徳寺、長福寺、竜隠寺に寄宿した人たちもいてそれぞれ自家の系図を持ち帰ったものと思われます。それぞれは河野の分家ですので、すべて○○流河野系図となるのでしょうね。

それを後世の人は○○本河野系図とタイトルを付けたことからすべて宗家系図と誤解したのでしょうね。

本来は〇〇寺に伝わる、〇〇流河野系図とタイトルをつければ
よかったのでしょうね。河野家のように長命の家では、南北朝、応仁の乱、河野家内訌、等で家により一門であっても立場が違いますので、系図が変容していきますから、どの寺かではなくどの家の誰が編纂したかで系図が変わりますね。

長福寺本は南明が相当加筆して、実家の正岡、黒川家用に編纂しなおしたと思われますので、得能家の得能河野系図流の天徳寺本と違う形態になったと思われます。

現在の河野系図の大半は江戸期に相当いじくりまわされて、子孫家の中でわけの分からない系図に成長しています。

南明禅師の軌跡も6年前から、黒川、正岡家に絞って、伊予の黒川さんと共同で探索していますが、よく分かりません。

「南明禅師・その生涯と墨蹟」の14Pの略系図も疑問点が以前から多いので話題になっています。色んな伝承があり辻褄が合わないのです。本家本元の黒川さんが訳がわからないと現在探索中断されています。

「南明禅師」の書で分からない点がありますので分れば教えて頂けませんか?

①P14.「南明の父正岡常元民間に下り、慶長年間村上右衛 門と共に安芸の福島正則に仕えた」する出典は何でしょう  か?

②慶長16年妻子を村上に預けて移り長州に移り毛利家に仕え
 とされますが、この村上とは誰のことなのでしょうか?

③毛利家に仕えていたとされる、正岡常元が、徳川方の毛利家
 に偽り、豊臣方を助け慶長19年に大坂城に入り落城の出典は
 何なのでしょうね?

④南明は安芸のどこで生まれたのでしょうかね?


どうも福島正則の軌跡とは一致しない気がするのですが?

何か、伝承が混乱しているようですね?

断絶した家は現在では分りにくいですね。
   



Re: 長福寺一色家過去帳 - 敏衛門

2017/02/14 (Tue) 15:05:53

織田信長や明智光秀クラスでさえ謎がいっぱいありますから河野家のようにローカル守護の伝承は謎だらけでも不思議ではありませんよね。
明智光秀のように御子孫が何年目の真実とかのタイトルで出版して世に問う作品ではなく長福寺が南明禅師の生涯と墨跡を主とした作品ですので伝承通り周辺人物を登場させているんでないですか?
①~④については敏衛門レベルでは分かりません。む~みんさんの方がご専門でしょう。

長福寺本河野系図 - むーみん

2017/02/14 (Tue) 17:51:02

書かれた人が、長福寺の住職さんなので、当方は①~④までの
出典にお目にかかったことがないのです。しかも面識もありませんので、ヅケヅケ聞くのも失礼なので、一色さんなら檀家と思われますので確認できるかなと思っただけです。

南明禅師墨蹟 - 敏衛門

2017/02/13 (Mon) 19:35:57

南明禅師筆 1681年66歳の法号(下)盡外恵最

Re: 南明禅師墨蹟 - 敏衛門

2017/02/13 (Mon) 19:54:32

南明禅師筆 年代不明 佛三世云々

Re: 南明禅師墨蹟 - 敏衛門

2017/02/13 (Mon) 19:59:01

南明禅師筆 1684年10月15日69歳 遺訓 通似宛

Re: 南明禅師墨蹟 - むーみん

2017/02/14 (Tue) 10:39:31

敏衛門にいつもおねだりばかりするのも気がひけましたので良い参考書がないかと捜しましたら河野徳峰さんの「南明禅師」がありました。NETで注文したら、昨日、松山市の写楽堂から届きました。こちらが敏衛門さんの出典ですね?

一色法号書もありますが、書風は五の「龍華院像賛文」と三十の「法語 仏三世云々」サインと似ていますが、「ノの部」が
必要以上に左下がりの筆跡が見当たりませんので、何とも言えないですね。

もちろん、一色市兵衛重昌の戒名に「棙宗」の文字は入っていると思われますが、どのような戒名になっているのでしょうか?

生前に法号を頂戴したと思われます、明応2年に出家されているのでしょうか?

「棙宗」とは艱難辛苦を乗り越えて先祖の御霊を貴ぶ、崇高な人と言う意味と思われますので南明禅師も一目置いたのでしょうね。

Re: 南明禅師墨蹟 - 敏衛門

2017/02/14 (Tue) 12:09:30

そうですか「南明禅師」よくみつかりましたね、古本屋にもあるんですね。
この本(長福寺版河野系図・予章記)に興味がおありのようでしたのでお送りしようと思っていたところだったんですよ!
スキャンしてUPするのもめんどくさかったし。

敏衛門もたまに写楽堂で購入しますが伊予関係の蔵書は少なくていい値段付けているのでもっぱらロープウェイ通りの 「古本の愛媛堂」で購入します。
伊予歴史関係の蔵書が多くお手頃価格で販売していますので松山に来るようなことがあれば是非寄って見て下さい。

仏三世云々はいつ頃書かれたのわかりませんよね!
南明は遺言まで一色氏に残しているので相当関係は深かったことがうかがわれます、贋作を一色氏も作る意味はないでしょう。
南明が生きていた時代一色氏の様子が「文字」として残されている事実が伊予一色子孫として嬉しい限りです。



吉川家家紋拝領 - むーみん

2017/01/29 (Sun) 12:59:36

一色ブログに

『毛利勢の伊予支配は二年で終わった、この時、吉川元長より吉川家の紋章である丸に三引き紋を賜り現在も全国一色族の中で唯一同家紋を使用し続けている。』

とありますが、伊予一色家と吉川元長との接点はいつ、どこなのでしょうか?

分かりましたら、出典とともにご教授願いたいのですが?

Re: 吉川家家紋拝領 - 敏衛門

2017/02/03 (Fri) 22:11:44

お尋ねの件は松山一色氏のルーツ研究を長年続けられた故一色薫雄氏の残された資料が元になっています。

吉川家との関係は来島通総勢として秀吉の四国責めに参戦したと伝わります。

家紋 の件は私の研究成果です。

突っ込まれどころ万点ですが最近は一色氏についてご無沙汰ですのでお手柔らかに!



Re: 吉川家家紋拝領 - 敏衛門

2017/02/03 (Fri) 23:10:58

一色薫雄氏研究資料を見ていましたら戒能さんがありました。

戒能氏は道後の地頭?も兼ねていたようですね。

伊予一色伊予移住 - むーみん

2017/02/04 (Sat) 18:08:21

いえね、高須賀氏、戒能氏のを探索をしているとどうしても他家の動向が出てきます。これらは「愛媛県史」にあるように色んな古文書や古書をベースに作成されていますので同じ時期に違う表現や違う人がまま出てきます。これらを出典の質を見極めながら史実を探求するしかありません。

今回ふと、伊予一色氏はなぜ伊予に来たのかまた気になりました。ブログでは下記のようになっていますね。


 『天正8年(1580年)、戦国武将一色右馬三郎範之(後の一色右馬三郎重之公)は丹後国
 宮津城(現・京都府宮津市)の落城前に外祖父である河野通泰(村上通泰)との縁により、
 子の重直、重次(6歳の双子)、家臣赤澤某、伊藤嶋之助、佐和小十郎等十余名を連れ、
 豫州宇摩郡へ来た。
  一族は当時新居郡の旗頭であった高峠城(高外木城・タカトキ)石川通清氏の食客となり
 新居郡萩生村に居住。その後、桑村郡旦ノ上村に居住。そして、旦ノ上村青野六太夫只正の
 娘を重次の嫁に迎え縁者となった。』

ここで気になるのは、

①重之の母は来島通康の娘(嫡女はいないのでこの場合は養女と思われます)が実は誰の娘で、いつ何処で結婚したのでしょう?

②宮津城の落城前には結婚しており、子も居たことになっていますが、宮津城の落城はいつでしょうか?

③また村上通康と一色氏との接点が良く分かりません。
 どのような言い伝えになっていますでしょうか?


④過去帳にある、前雲州太守義傳栄法大居士(慶長9年6月23日没)はどなたでしょうか?


吉川家家紋拝領はもう少し吉川家を調べます。
吉川元春は天正13年の伊予征伐の時、一時的に豫洲勢を先鋒には使っていましたが、直臣扱いはしていません。
家紋を親族以外に与えた記録はないのですが?

天正8年も動乱の年で

3月9日 毛利輝元の將草刈重継、羽柴秀吉の將隠岐土佐守及び宇喜多直家の兵を美作信山城に邀撃して、土佐守を斬る、是日、輝元、重継の軍忠状に證判を與ふ


閏3月に秀吉は寝返ったばかりの、別所長治を通じて村上吉次宛ての調略の手紙を送る【和歌山藩藩中古文書】

初めて来島村上の調落を始めます。

4月24日 信長、羽柴秀吉の、小早川隆景を備中高山に包囲せんとするを聞き、長岡藤孝、一色満信に其赴援を内命す

同日、羽柴秀吉、弟長秀(秀長)をして、但馬を平定せしむ

6月5日 羽柴秀吉、宇野民部大輔を播磨宍粟郡の城に攻めて、之を敗走せしめ、尋で、因幡、伯耆の国境に進む、因幡の諸氏、降る

9月 来島通総が風早郡柳原に攻め込む。

等になっていますので、一色氏が伊予にきたのは5月以降と思われます。来島通康の許に来たとするなら、河野宗家牛福通直勢と家督争いの真っただ中でその応援の可能性がありますね。
アンチ河野宗家へ来島村上、石川、二神らでしたから歴史上は符合すると思われます。
一色氏が通康の養女と婚姻関係を結んだとすれば、天文9年以降と思われます。双子の子が生まれたのは1573年前後と思われ
ますので、嫁を貰ったのはそれ以前ですね。

嫁さんはどこの誰となってますでしょうか?

戦国期は情報が錯そうして分からないことが多すぎますね。





Re: 吉川家家紋拝領 - 敏衛門

2017/02/06 (Mon) 20:34:11

私はが言うのも何ですが伊予一色氏は何故この地に根付き其れなりの勢力を築いたのかハッキリした一次資料は見つかっていません。
しかし松山一色氏は知多半島から西条一色氏は丹後から今治は知多半島松山一色氏一族の一人がが江戸時代を通じて今治藩家老として勤めたと伝わります。

松山一色範直の妻は村上通泰の娘(養女)一色右馬三郎の母は通泰の娘と共通点があります。

①判りませんが妻は丹後水軍の猛将桜井家の娘です。

②これもよく判りませんが天正6年の上宮津城(一色氏重臣の居城)、若しくは中山城ではと推測しています。

③松山一色氏の場合は足利義昭側近で梅仙軒霊長が取り持ったとつたわります、丹後一色氏は鞆幕府足利義昭の反信長勢として吉川元春と同盟関係にあった。

④判りませんが長福寺の過去帳ですので亡くなった順番で併記していただけでは ないでしょうか。

周辺資料が増える程あれやこれやと推測ばかりで悩ましいかぎりです。



河野家と足利幕府のかかわり - むーみん

2017/02/07 (Tue) 08:47:18

そうですね、調べれば調べるほど色んな資料が出てきて悩ましくなりますね。その度に資料の真贋と出典の確認に追われます。出典が一次史料でない限りは「史実」とは認めにくいですが、せめて一次史料からの「親引き」まででしょうね。
孫引きや編纂物、系図、軍記物が出典の場合は少し距離を取る
必要がありますね。ましてや、後世の解釈物となれば「推定物」として作者や作成目的や作成背景と作成時期の確認が必要ですね。

伊予一色氏が伊予とのかかわりは足利将軍家を中心に行われてきたと思われます。梅仙軒霊長や一色藤長、上野信孝が仲介役と思われます。
伊予河野家が足利将軍家とかかわるのは足利尊氏からですが、室町末期では河野弾正少輔通直から特に身近になったと思われます。弾正少輔通直は

天文9年 4月12日 幕府、伊豫守護河野通直を相伴衆と爲すに依り通直、禮物を進む【大館常興日記】

と在国ながら相伴衆となります。室町幕府も衰え始めていますね。
私が一色氏が通康の養女と婚姻関係を結んだとすれば、天文9年以降と思ったのはこのような経緯からです。ただ梅仙軒霊長がかかわっていたか否かはわかりません。河野弾正少輔通直の跡の河野四郎左京大夫(通賢)通宣と梅仙軒霊長や一色藤長、上野信孝が文通していた書簡が残っていますので、河野家はあくまで足利義昭を将軍として敬っていたと思われます。よって、信長やその家来秀吉の誘いに乗らなかったのでしょう。

河野四郎左京大夫(通賢)通宣は「左京大夫」任官を足利将軍にお願いし、めでたく「左京太夫」と10月28日叙任された旨、上野信孝から知らされます。この時、梅仙軒霊長の口添えが特に有効であったと強調しています。これらのことにより、通宣は将軍家を主君としていたことが分かります。

これらの経緯から、子無き通宣の跡取りにしようとしていた来島通康のことは将軍家側は知っていたと思われます。よって河野家を足利側に引き止めようと、来島通康の女(養女)を求めたとしても不思議ではありませんね。

ただ情勢が変わったのは、来島通康を河野宗家棟梁とは認められず、通宣は(~1581 7/4)病死します。通宣室は(宍戸隆家・毛利元就嫡女・しんの娘・春禅院)ですので、毛利家の影響が河野家を支配します。よって来島通康は部外者扱いとなりますので、子の通総とともに、河野牛福通直家と敵対行為をとるようになり、度々反乱に及びますね。最後には秀吉の誘いに
乗り河野宗家をうらぎり秀吉に走りますね。来島にいることが出来ずこの時、京都に逃げ出します。

来島通総は天正7年から河野家に反逆し、天正8年9月には柳原に攻め込みます。天正10年には秀吉と手を結びます。この時から伊予にいることが出来ず京都に逃れたとされ天正13年に優勢となった秀吉の毛利への命令で能島村上を追い出し帰郷します。

この間、伊予一色家はどこで誰の許にいたかが分れば謎がとけそうです。

足利義昭は室町幕府を潰そうとする信長、秀吉が嫌いですからその家臣一色藤長を通じて、河野牛福通直とやりとりをしています。牛福が宇都宮を捕えた時の礼に対する返事は藤長から来ていることからもわかります。

伊予一色氏が伝承の通りだとすると相当数奇な運命をたどった
ことになります。

①河野家惣領となる筈の通康に娘と婚姻関係を結んだので伊予 に渡った時は河野宗家の敵方になってしまっていた。

②仕方ないので石川家に食客となっていたのに、石川は土佐長 曾我部側となってしまった。天正の陣で戦ったが、小早川、 吉川の猛攻に耐え切れず、石川嫡子を土佐に逃した上で金子
 たちは玉砕したが、なぜか食客の一色は生き延びた。

③この時、一色重之は石川家を離れ、通康の子、通総に従い
 戦った。よって通総を指揮した、吉川元春から吉川紋を拝領
 し現在にいたる。

のような流れになりますが、相当無理があり伝承に混乱があるように思われます。

足利義昭周辺を追った方が、史実に近づけるかもしれませんね。

長福寺過去帳はもう少し検討してみます。




Re: 吉川家家紋拝領 - 敏衛門

2017/02/07 (Tue) 20:29:30

む〜みんさんご見解ありがとうございます。

方原・荏原 - 高須賀

2017/01/30 (Mon) 11:57:57

〔伊予不動記大系図〕の高須賀氏家譜に、「方原次郎」と記載がありますが、方原とは伊予の地名なのでしょうか?。

また、同系譜に「荏原ニ墓アリ」と記載があり、荏原村は現在の松山市内南部と記憶していますが、荏原に室町・戦国時代から続く古刹はあるのでしょうか?。

Re: 方原・荏原 - 敏衛門

2017/02/01 (Wed) 23:06:52

荏原の方原は知りませんが重信川を挟んだ土居町の万福寺(河野一族土居氏の屋敷跡)で高須賀氏の石碑を見つけましたが由来はわかりません。

Re: 方原・荏原 - むーみん

2017/02/02 (Thu) 10:18:43

地元の一色さんのコメントを待っていましたが、UPされましたので一言。

方原はどこかの地名なのでしょうが、どこかは分りません。

消えた地名(ほのぎ)は沢山ありますので、大字、小字を1000年以上遡る必要があります。一代では無理でしょう。

「荏原」と読んだようですが、「萩原」と書いてあるのではないでしょうか?

荏原と萩原では場所が違います。萩原だと山奥ですね。
なんとか公園のあたりとされますが、歴史上そことも断定できません。方原は高須賀の分家の分家と書いてあるのではないでしょうか?

荏原での古刹は美濃土岐家の浄瑠璃寺ですが14世紀以降に平岡家に盗られました。、現在の伊予の中世史では平岡家菩提寺とされます。県史もいい加減なのですが愛媛県では妥当です(笑)平岡に盗られては困ると美濃土岐家から要請文が小田大野家に伝えられますが、相手は河野家の配下なので取り返せませんでした。これらを含めて、平岡、戒能、高須賀グループと大野と黒川家はドンパチしています。(笑)

和気郡吉原郷(荘) - 高須賀

2017/02/02 (Thu) 10:46:33

敏衛門さん、むーみんさん、回答ありがとうございました。方原、萩原については、もう少し探して考えてみます。

もう一つ教えてください。和気郡吉原郷とは、現在のどの辺りなのでしょうか?。伊台盆地の辺りという記載も見ましたが、よく分かりません。

Re: 方原・荏原 - 敏衛門

2017/02/02 (Thu) 15:46:25

和気郡吉原郷は現松山市吉藤町の山手辺りでは?

吉原熊野神社が御鎮座しております。
現在の伊台地区と隣接している場所です。

吉原郷 - 高須賀

2017/02/03 (Fri) 13:26:55

敏衛門さん、ありがとうございました。間違いなく吉藤の地が吉原郷のようです。しかし、神号を併記した扁額とは、これまた珍しい神社ですね。熊野神社を後から合祀したようですね。

一色義有謀殺 - むーみん

2017/01/29 (Sun) 05:33:29

資料ありがとうございました。

一色義有が長岡(細川)藤孝に謀殺された経緯が分りませんでしたが、政略結婚のまさにその婚儀の場で謀殺したのですね?
これは出典は一色系図なのでしょうか?

肥後細川家文書は「誘い出して殺した」と婚儀の場ではなく謀略のようにしてありますね。流石に後ろめたかったのでしょうね。

許嫁の藤孝の娘伊与は殺すための結婚式とは知らなかったから後で父親に猛抗議をしたとされますので、娘を欺いてまでの結婚は戦略の具であったことになりますね。

よく分からないのは、この様な状態は現代では「婚姻不成立」としますが、一色系図も細川系図も「婚姻成立」の前提の書き方ですので、騙した方も騙されて方も「口をぬぐう」のが普通の感覚だったのでしょうね。

現代の感覚で系図を読むと嫁さんの実家と殺し合いをすることはあり得ないと思い込んでいる人がいますが、下剋上時代はまさに婚姻は政治の手法であることが分かりますね。

資料を送って頂けなければ判明しませんでした。


また、別の資料で信長配下の一色さんは、長篠の戦いの前夜に
「武田が侵入してくるから伊予河野家も応援に出てこい」と
手紙を送っています。一色、足利、信長、秀吉、河野、毛利、
と複雑に絡みあっています。

当時はみんな立場をわきまえてそれぞれ交流していたのでしょうね。

伊予一色家もこれらの流れが分った上で行動していたのでしょうね。

Re: 一色義有謀殺 - 敏衛門

2017/02/01 (Wed) 21:42:09

義有(一色五郎)婚儀の席で謀殺説は初耳です。
五郎の最期については諸説ありますがさすがに幽斎も忠興も其処までは?
五郎と伊也(幽斎長女)は天正9年5月宮津に来遊した明智光秀の仲介で娶ったとされます。
五郎の命日は天正10年9月12日説が有力で婚儀の席での謀殺はちょっと考え難いのでは無いでしょうか?

信長配下になった五郎ですが丹後では強力な力を保持していたようで其れを恐れた幽斎、忠興 親子は本能寺の変で光秀に加担の罪を被せ謀殺したのでは無いかと私は推測しております。
宮津では五郎謀殺の地に一色稲荷を建て未だに其の霊を祀っています。

河野に応援要請の事は知りません教えて下さい。

Re: 一色義有謀殺 - むーみん

2017/02/02 (Thu) 09:42:40

義有謀殺が初耳と言われても私も困るのですが、送って頂いた神奈川県の一色さんの編纂系図には、「天正10年9月9日婿入りの儀として誘殺される」と書かれているので新発見としましたがこの系図はいい加減なのでしょうか?

結婚式に婿を殺したとするなら、現在の民法では婚姻関係は不成立ですけで、一色系図も細川系図も婚姻関係成立としますので、とてもややこしいことが起こっていたのでしょうね。

問題は神奈川の一色さんのこの一色系図の出典が問われますね。

河野家への応援要請に信長臣下の一色さんが手紙をだしたことは「愛媛県編年史」に書かれていますので参照願います。

Re: 一色義有謀殺 - 一色敏衛門

2017/02/02 (Thu) 12:19:05

むーみんさん「天正10年9月9日婿入りの儀として誘殺される」ではなく系図に書かれているのは「聟入之儀」で意味はほぼ同じようです。


「聟入」を大辞林で調べてみますと結婚後夫が妻の正家を初めて訪ねること。又その儀式。とありますので婚儀の席ではなく藤孝の城へ挨拶に行った時に騙し討にあったと言うことでしょう、そのあたりの事は細川家家譜にも詳しく書かれています。

又、五郎が居た弓木城近くに今も残る単地蔵の伝説とも重なるところがあります。

河野家への応援要請の件ご回答ありがとうございました。

Re: 一色義有謀殺 - むーみん

2017/02/02 (Thu) 21:05:12

なるほど、そうゆうことでしたか。

勉強になります。

戒能様へ - 敏衛門

2017/01/23 (Mon) 21:36:17

初めまして敏衛門です、掲示板見つけていただきありがとうございます。
少年のころ戒能君という友達がいたので何か短に感じます。
ご覧の通り当初よりムーミン先生に伊予河野家の歴史についてご指導ご意見をご教授いただける貴重な掲示板です。
不思議な事で東温市井内にお住いの戒能さんも詳しく自家の 古い歴史をご御存知ない方もおり興味をお持ちの方々もいます。

是非、戒能さん何かあればお気軽にご利用下さる事を願っています。

Re: 戒能様へ - 敏衛門

2017/01/24 (Tue) 22:50:25

戒能さん私は興信所ではありませんので個人の先祖由緒については何もわかりませんが調査の為愛媛に来るのであれば道案内位はお手伝いいたしますのでご連絡下さい。

敏衛門様へ - 戒能

2017/01/25 (Wed) 00:23:47

敏衛門様は愛媛の方なのですか?
すみません、掲示板を全部見ているわけではなくて…。
敏衛門様がどういう方かも存じ上げないので、さすがにいきなり不躾なお願いをするつもりはございません。
井内の戒能さんをご存知で興味があるとのことでしたので、何かしら連絡が取れればと思いました(^_^;)
失礼がありましたら、申し訳ございません。

Re: 戒能様へ - 敏衛門

2017/01/25 (Wed) 10:47:38

敏衛門は松山です、東温市の隣で井内まで3~40分というところでようか?
井内の戒能さんは直接は誰も知りませんが先日高須賀さん家の家紋調査で参りました時に少しお話させて頂いた程度です。
基本怪しい人間では無いと自称していますが中途半端な歴史オタクです。

戒能様 - 高須賀

2017/01/25 (Wed) 12:44:05

敏衛門さんは、怪しい(私ではなくご本人の言ですよ)方ではなく、本当に信頼できる方ですよ。遠方で現地調査の出来ない私のために、わざわざ時間と労力を費やして、伊予高須賀家の家紋の調査をしてくださいました。初対面で現地案内をお願いすることに考えもあろうかと思いますが、私なら甘えてお力添えしていただいちゃいますねー。

戒能氏 - 一色敏衛門

2017/01/16 (Mon) 11:20:25

 東温市井内に行ってきました、此処は戒能氏の小手滝城があった所です。
 はっきり言ってすっごく田舎ですが戒能氏直系のご子孫が8家現在も住まわれています。
小手滝城があった山は現在も戒能氏所有で使用権を吉井神社に与えているそうです、昔は竹の皮等が採取できたようです。
 戒能家直系代々の墓もお城のような石垣が組まれた上にありました。
 高須賀さんも1軒、他に八木さん、菅野さん等今なお戦国時代からの変わらぬ方々が住まわれているよです。名前だけ見ていると戦国時代へタイムスリップしたようです。
 江戸時代初期は菅野さんが庄屋をしていたようですが戒能さんが復権して戒能さんが明治まで庄屋を勤めました。

 戒能氏の直系ご本家は名前を変えられ道後岩崎町に現在も住まわれているそうです、これって室町時代からずっとこの場所で続いていると云うことでしょうか?近々戒能氏名に戻られ名門戒能氏を名乗られる方がいるようです。

 戒能氏の名前の由来は地名が先か、名前が先か分かりませんが道後義安寺辺りに戒能谷があり其処を流れる川を戒能川といったようです。・・湯築城の東側から南側にかけて・・

井内の戒能氏代々墓地の石垣を貼っておきます。


 

Re: 戒能氏 - むーみん

2017/01/16 (Mon) 12:47:20

一色敏衛門様

軽いフットワークですね。ご苦労様です。

やはり戒能家も相当数残っているようですね。

現地の戒能家は通字の「通」はまだ引き継いでいるのでしょうか?

明治初期の庄屋の戒能家に「通」がみあたりません。

戒能重郎太
明治4年7月23日没
  室 マスヨ
大正4年5月1日没

戒能重次郎
明治4年9月13日没
【維新前後の庄屋】
井内村庄屋 戒能重次郎

=重郎太の子

戒能義重(養子)
明治4年(1871)11月25日生~
  室 チエ(重郎太女】
明治4年4月13日生~

等になっています。たぶん他に沢山いると思うのですが。

戒能家当主は伊予を離れ、長野へ移動したともされますね。

そこで生まれた有名人が

伊予離島 長野飯田市生
戒能通孝
(1908/5/30~1975/3/22)
都立大教授
 
とされ、その子が
戒能通厚
(1939/8/2~)
名古屋大学名誉教授
早稲田大学教授
室 民江
(1944/9/~)
お茶の水女子大學教授

とされ、本人は伊予との関係をあまりご存知なく最近出張の折
松山に立ちより、山内譲氏がわざわざ戒能家の墓にご案内したとか。

通厚氏の子、

戒能通弘
(1970/11/10~)
同支社大学準教授

まで連綿として通字の「通」は使用されているのですが、伊予ではどのようになっているのでしょうね?

戒能通孝氏の親や祖父の名が知りたいものです。こちらは系統はすべて「通」を使用しているのではと思われます。




井内の戒能氏代々墓地の石垣 - むーみん

2017/01/16 (Mon) 17:34:31

墓地の石垣はとても立派ですが、元は何があったのでしょうか?

石積からすると安土桃山時代の石積と思われますので、城か屋敷か寺かの跡地のような気がしますが?

戒能通森の墓地「大通院」とは違いますよね?

Re: 戒能氏 - 敏衛門

2017/01/16 (Mon) 22:56:40

む〜みんさん、大通院が何処に有るのか知りませんので判断出来ませんが本家の墓は岩崎町に持って行ったと戒能さんから聞きました。
石垣の場所は東温市井内小手滝城の下です。
井内の戒能さんは戒能博士等のことは知っていました、それと井内には..通..を代々受け継いでいる方は居ないようです。
しかし河野家重臣戒能家 の聖地であることは疑いありません。
家紋はもちろん河野紋です、東温市は河野の家紋が多く見受けます。
石垣の上には戒能家及びその一族のお墓と10坪程の納屋のような建物があるだけでした。


Re: 戒能氏 - むーみん

2017/01/17 (Tue) 18:19:08

石垣は小手滝城の一部なのでしょうね。

角石が算木造りではないので戦国期以前の築造でまちがいでしょうね。

そうですが、現地では通字「通」はもはや継承されていませんか。通字が「重」に変わっているようですね。
とすれば帰農した分家筋の関係かもしれませんね。

現在では通字の継承は殆ど行われなくなりましたので、通字を継承する家の方が珍しくなりましたね。

Re: 戒能氏 - 敏衛門

2017/01/17 (Tue) 20:49:56

現在の井内は分家の方々しかいませんので「通」の通字は岩崎町の本家筋の方に受け継がれているのかもしれません。

古老の話によると古い武器類はかなりあったようです。

本家筋の話も少し聞きましたがこの「本家」は庄屋さんの事を指していると思います。

写真は100メートル程の所にある吉井神社です。

Re: 戒能氏 - 敏衛門

2017/01/18 (Wed) 16:45:19

む〜みんさん、石垣の上は戒能氏の「大通庵」でした。

Re: 戒能氏 - むーみん

2017/01/18 (Wed) 19:19:23

わかりました。

ありがとうございます。

Re: 一色敏衛門様 - 戒能

2017/01/24 (Tue) 21:44:53

こんにちは。メッセージありがとうございます。あれこれ見ていたので、こちらの掲示板のことを失念しておりましました。スマホだと、このスレがどうなっているのかわからず、私が前にどこか書いたところもわからなくなってしまいました…。

井内へ行って来られたのですね。
小手滝城跡行ってみたいですね。そこに納屋も残っているんでしょうか?

投稿者削除 - (削除)

2014/08/31 (Sun) 17:20:55

(投稿者により削除されました)

Re: 先祖の地 - むーみん

2014/09/01 (Mon) 05:29:19

失礼!横から入り込みます。
高須賀さんちのは興味ある家伝ですね?

詳しくは敏衛門 さんにまかせましょう。

高須賀氏が戒能氏の重臣であったのは戦国期と思われます。

御承知のように戒能氏は伊予守護家河野家支族とされます。
河野家通字は「通」ですから、戒能家も引継ます。
高須賀通堯も「通」を使用していますね?
これは南北朝期の河野家当主、通堯(通直)と同じ名を使用して
います。
これは主君の戒能家から貰ったヘンイと云うより、戒能家の分家の可能性が高く、広くは河野家の枝族に含まれるかもしれません。

高須賀と云うのはたぶん伊予のどこかの地名でしょう。
河内町近辺にあるのではないでしょうか?
歴史的にはホノギと言われるもので現在では大字、小字で残っている可能性がありますが、伊予のホノギは新参者の江戸幕府から派遣された大名により相当改編されてており、現在に残っていないかもしれません。「太閤検地帳」が見つかればわかるのでしょうが?

大坂の陣がどちらか分りませんが、下総に土着したのであれば徳川方に属していた可能性が高いですね。下総のどちらに土着したことになっていますが?佐倉の近辺ではないでしょうか?

尚、伊予史談会に高須賀系図がありますが、簡単なものだと思われます。

話は変わりますが、敏衛門さん のブログ記事に

伊予史談会「戒能家略譜」資料より抜粋

「戒能氏は1500~1585年頃、浮穴郡「子手滝城」を築城し井内、洲之内(則之内)、南方、北方一部を支配していたが、久万山東明神大除の城主大野直昌、度々山越え襲来してきたので戒能通盛、新たに大熊の城を築き常にクニ木と云う上屋敷居住した。

当家譜代の家臣八人あり、其内 八木、高須賀、西、是等の末孫今に至るまで是あり。
 菅(菅野)、東、西田、中タイ等家系展転せり。

昔は八人の家臣、当家の領内に於いて所々に住在し各々一寺一宮を其住に建立して崇奉せり基礎今に至って是あり。
家伝曰、当家累代越智を姓とし或時は河野を名乗り、実名には通の字を伝え家の紋には蕎麦折敷に三文字を付し古は建物に桐の塔を紋とせしかども出陣の時分屋形の御建物と一様たるにより尋常には是を参酌す。」

の「戒能家略譜」が気になりました。

(久万山東明神大除の城主大野直昌)とありますね。

この「戒能家略譜」がいつ編纂されたのか解りませんが、
二つの疑問点が出てきます。

まず、戒能の花山城を襲ってたの直昌の父、利直の時代で、戒能を援助した平岡房実を攻略し、人質として房実の娘を人質婚をさせ、その娘に産ませたのが、大野利直三男、直昌とされますので、直昌が戒能を攻める必要はありませんので、戒能家略譜が混乱していると思われます。

次は(久万山東明神大除の城主大野直昌)の記述です。

一般的に伊予史では久万大除城は菅生にあるとされ、明神あるとはされていません。
久万町誌は菅生としていますね。

私は大除城は二つあったと見ています。

本来の大除城は菅生であり「大野家譜」が語る、「大代家城」が本城と思います。江戸期の編纂物「豫陽河野家譜」が語る「大除城」は東明神の大除城と見ています。こちらは、大野文書では家臣の明神氏が守った砦城と思われます。

大除城の築城年代が、「豫陽河野家譜」と「大野家譜」で違うのはこのような経緯を知らない江戸中期や明治期の編纂物の仕業と見ています。

Re: 先祖の地 - 敏衛門

2014/09/01 (Mon) 11:01:58

高須賀さん大枠はムーミンさんが返答して下さいましたので省きますが高須賀を名乗ったのは戦国期でしょう、それ以前に名は見受けられませんから。

主君戒能氏は蒙古退治、源平合戦、河野VS細川戦でも河野家に随つて功名を発しているので高須賀氏のご先祖様もこの頃より戒能氏と共に行動していたと思います。(参考にムーミンさん宛返答に戒能氏家譜全文を貼り付けておきます、高須賀氏との縁続きも書いてあります)

高須賀は地名(地形)から来ています。※敏衛門説ですが

 須賀・州賀 = 砂州 の事です。

 東温市の地図を見て頂ければ地形がよく解ると思いますが、牛渕に「浮島神社」がご鎮座されています。

 なぜか平野にあるにもかかわらず「浮島神社」なのか?
答えは、神社がある場所は当時の重信川(昔は伊予川)の中洲にご鎮座されているからです。

 豊臣の時代、加藤嘉明の家来足立重信が暴れ川と呼ばれていた伊予川を改修して名前も重信川と変え現在のような流になりましたが伊予川時代は雨が降る度に神社は中洲に取り残され其の名の通り島が浮いたよう姿に見えました。

 浮島神社から数キロ先の上流にも中洲がありました現在の東温市南方のあたりです、そこは浮島神社の上流にあったので高洲と呼んだのでしょう、そしてこの高洲に住む実力者がこの名をとり初め高州賀と書き後に高須賀と書くようになったのではないでしょか?
ここ高洲の南方には戦国時代に高須賀氏の南方船野砦がありました。

 江戸時代には南方村の庄屋は高須賀氏が務めていました、このような事実からこのような説をとってみました。

 高須賀庄屋は本家筋にあたり戒能家から賜わった通字「堯」を代々受け継いでいます。

 余談ですがこの「堯」の通字は戒能氏の有力家臣であった宇和川氏も本家筋の則ノ内庄屋宇和川氏が代々受け継いでいます。

 南方の肥沃な土壌のおかげで高須賀一族や一党は裕福だったのか現在の東温市での名前ランキングは渡辺氏に続き第2位になっていますね!

 全国高須賀氏の9割が東温市近辺(松山市含む)に分布しています、中でもの東温市南方が密度が一番高くここが高須賀氏の発祥の地と考えられます。

 

Re: 先祖の地 - むーみん

2016/09/18 (Sun) 06:12:41

最近、伊予の戒能の子孫の方が、高須賀や八木は、家臣であり
また、一族であるとしています。

「予陽河野家譜」は戒能は河野家の氏族と書きますので、河野家嫡流と思われます。同譜は庶流もしくは、姻戚を「一族」と
表現しているようで、「河野一族」とは関係者全員に近い状態となりますね。

「河野家分限録」が一門でない人たちも一族と表現するのは
姻戚関係を含めたグループ名称のようですね。養子、養女、
婚姻関係が一回でもあれば一族としたようですね。

争いの絶えない時代では親戚が多い方がいいですからね。

今まで何気なく見てましたが、「氏族」と「一族」は意味が
違うのですね。勉強になりました。

先祖の地 - 高須賀

2016/11/02 (Wed) 18:01:45

大変ご無沙汰しております。伊予高須賀一族について、旧川内町史、新川内町史、伊予不動大系図(伊予史談会所蔵、愛媛県立図書館保管)に、出自や系図が収録されており、戒能氏とは戦国時代末期に姻戚関係になっていることも記載されています。戒能氏の女子が高須賀一族に嫁いでいるようです。概要は次のとおりです。清和源氏新田堀口一族。鎌倉時代中期、堀口(のち高須賀)堯氏が熊野より伊予国温泉郡(現愛媛県東温市)に土着し、船野山城(砦)主となり、子孫は戒能氏、河野氏、長宗我部氏の武将となった者や、江戸時代、南方・則之内・西之川村などの庄屋を世襲して務めた者を輩出した。また、大坂の陣に豊臣方として参加した者は、江戸時代初期、下総国葛飾郡(現千葉県野田市)に土着し、岩名村の庄屋を世襲した。【出典・河野予陽家譜、河野分限録、伊予不動記大系図高須賀系図、伊予温故録、西条史、旧新川内町史、伊予の古城跡、岩名吉春の民俗など】

Re: 先祖の地 - むーみん

2016/11/12 (Sat) 04:55:56

再度、戒能・高須賀を当たりましたが、河内町史以上のものは出てきませんでした。

やはり戒能は河野家支流で、高須賀は清和源氏源頼朝流でしょうね。伊予に来て河野戒能家一統となり戦国期を迎え、天正13年の湯月城落城、そして15年の河野家滅亡より両家とも一家離散が始まりますね。大坂の陣で下総へ行って庄屋を賜ったとする家傳があるなら、大阪の陣に於いては、徳川方へ
付いていたのでしょう。この時代はよくあることです。高須賀家の本家は渡辺家なのでしょう。宇和川
家は渡辺の分家とされますから、兄弟家となりますね。
河内町に於いては、渡辺、高須賀、宇和川、戒能が
庄屋の殆どを占めていますから、本家筋は伊予に残り、次男三男が外に出て行ったものと思われます。
下総の高須賀は伊予を後にしたその一つでしょうね。下総移住の時期が特定できれば、どの殿様に付いて行ったか分かるのですが。関宿藩は殿様がコロコロ変わりますよね。
戒能略譜にヒントがないか見直しましたが、この譜は庄屋の戒能氏が伝承を基に整理したみたいでやはりあちこちに齟齬が見られますので信頼がおけません。色んな俗本から編集されているようで筆者自身
矛盾に気づいてないようです。
例えば、広島県の竹原を高原と書いた本と竹原と正しく書いた本と混在して「家譜」を作成していますので、自家に伝わる情報ではないもので編集されていることが分ります。

清和源氏新田流のブランドが徳川方に有利に働いたと思われます。徳川家は源氏の末裔を自称しますが、これは後世作為とされますね。大坂の陣へは豊臣方ではなく、徳川方ではないでしょうか?何か豊臣方とする史料が残っているのでしょうか?
豊臣方の残党を下総関宿藩の庄屋に任命するとは考えにくいのですが。関宿藩は小藩ですが、東北からの要の軍事上の拠点ですので、幕府譜代の臣が藩主を務め江戸城を護っていますね。
そんな所に豊臣の残党を置けるとは思われないのですが。
伝承が正しいなら、大坂の陣の前に徳川方に仕官していると
思われます。紹介者がいるはずです。関宿藩に行ったのち、藩替えになった時、庄屋として土着したと思われます。
暴れ坂東太郎をこつこつと開墾していったのではないでしょうか?

一色数馬 - むーみん

2016/11/12 (Sat) 05:06:06

下総の高須賀氏の縄張りは、戦国時代までは一色数馬さんの縄張りとされますので、三河一色家の別流の支配地だったのでしょうね。野田市はあまりよく分からないとします。

庄屋の高須賀さんちは利根川沿いのどのあたりなのでしょうか?

現在の野田市はキッコーマンの城下町ですので江戸以降の変遷しかあまり語りません。

先祖の地 - 高須賀

2016/11/14 (Mon) 18:49:45

むーみんさん、いつも貴重なご意見・知識を頂き本当にありがとうございます。下総の高須賀家が豊臣方として大坂の陣に参加し、敗戦して落ちたことは、野田市の地元の郷土史家の方が取りまとめた本に記載されており、高須賀家のほか戸邉、逆井、大瀧などの数家がともに土着したとされています。家伝も同様です。土着地は、東葛飾郡岩名村で現在の野田市岩名になり、関宿藩の領内となったことはなく、江戸時代を通じて幕領です。伊予の高須賀家については、旧川内町史に清和源氏新田流とする系図が、伊予史談会所蔵の伊予不動大系図に木曽義仲の末裔とする系図が収録されておりますが、清和源氏という以外は全く別の系図となっております。前者は南方高須賀家の、後者は則内高須賀家の系図となり、新川内町史には南方高須賀家の江戸時代の系図が収録されております。また、西条高須賀家は、長宗我部元親の臣で、豊臣秀吉による四国攻めに際して西条に土着したとされているようです。

Re: 先祖の地 - むーみん

2016/11/15 (Tue) 09:45:52

いくつか教えて下さい。

①まず大坂の陣は夏ですか冬ですか?

②大坂の陣ではどこに陣地し、誰と一緒に戦い、敵方は誰となっていますか?

③郷土史家はどのように書いているのでしょうか?

④戸邉、逆井、大瀧の出自は分りませんか?

⑤関宿藩の支配下ではなく幕府直轄領(天領)とされてますが代官もしくは奉行はどなたでしょうか?

資料等は画像でUPしていただければ助かります。

Re: 先祖の地 - 高須賀

2016/11/15 (Tue) 20:56:49

①②大坂の陣としか伝わりません。戦闘参加の詳細も分かりません。③豊臣方として大坂の陣で負けた、他の家とともに落ち再起叶わず土着した、先に来た高須賀家と後から来た高須賀家の2系統があるというような内容です。コピーを持っていますが今手元にありません。④戸邉などの出自も不明です。⑤野田市史は編纂刊行中でまだ詳細を読んだことがありませんが、少ないとも高須賀家に関する記載はなく、大正期に七福村長を高須賀家の者が務めたとある程度です。七福村は江戸時代の岩名村など七村が合併し誕生したものです。江戸時代の代官は、私自身の知識不足で分かりません。地元の寺住職、故人が何かの書物に大坂の陣に参加した高須賀の名が出てくると言っておりましたが、今となっては分かりません。

追記 - 高須賀

2016/11/15 (Tue) 21:24:34

下総高須賀家の家祖は、高須賀三郎兵衛と言い、百官名を兵庫としていますが、残念ながら実名は分かりません。一方、伊予南方村庄屋高須賀家の江戸時代初代は高須賀一郎兵衛と言い、実名は堯章となっております。三郎兵衛と一郎兵衛はほぼ同年代の人物と思われます。

Re: 先祖の地 - むーみん

2016/11/15 (Tue) 22:25:44

七福村は明治の合併ですのであまりヒントはないでしょうね。

大坂の陣で負けたとするなら、やはり夏の陣でしょうね。
伊予から豊臣方に参戦するとすれば、後藤又兵衛配下が一番可能性が高いと思われます。伊予の大野も又兵衛配下で道明寺の合戦で討死しています。又兵衛もこの戦いで討死したと伝えられますが、伝によると松山に逃れここで死んだとする説もあり
墓もありますので、伊予とは縁があったのでしょう。
河野黒川家の別家の曾我部と一緒に行動している時もあります。曾我部と後藤は福岡で知り合っています。

河内町には曾我部家があるのも何かの因縁かもしれませんね。

ただやはり気になるのは、豊臣方の敗残者は徹底的に徳川方は追及し、合戦に参加していなくても親族と云うだけで殺害されています。慶長20年5月の大坂城落城以降、元和9年7月までこの敗残者の一族郎党の追跡は7年間も続いています。
家光が将軍就任で恩赦が出され、敗残者追跡と厳罰は終わりました。
このような情勢の中での徳川幕府直轄領への移住は疑問が残ります。素性をひた隠しにしてきたのか、豊臣方ではなく徳川方
で参戦したかでないと移住できないと思われます。
ましてや庄屋となれたとするなら素性は代官が徹底的に調べるはずなのですが。岩名村へは伊予の人たちが集団でやってきたと思われます。岩名村は江戸川沿いですので、水田ではなく畠だったと思われます。現在も畑栽培が主と思います。
高須賀は武士ですので農作業はできません。百姓も一緒に連れてきたと思われます。小作が現地の人では言葉が通じません。

関東大震災の時に七福村近くの村で讃岐の行商人を朝鮮人と間違って村の警固団が10人も殺害しています。理由が単純で讃岐弁が分からなかったからとされます。大正でこれです。

岩名村の規模では庄屋の上に大庄屋がいたと思われます。
江戸末期では陣屋は布佐(我孫子市)にありますので、
ここが所轄代官所(陣屋)かもしれません。
この当たりの組織制度は野田市史編纂委員に聞けばわかると思いますよ。

Re: 先祖の地 - むーみん

2016/11/15 (Tue) 23:09:44

岩名村の庄屋時代の高須賀家の菩提寺は分りますか?
分かれば、その寺は

①現存しますか?
②宗派はどこですか?
③墓はありますか?
④寺の起源はわかりませんか?

寺が現存していれば古文書があるかもしれません。過去帳が残っているかもしれません。
丁寧な寺ですと「宗門帳」が残っているかもしれません。

高須賀家の「改正原戸籍」で一番古い人は、いつ時代の誰となっていますか?

寺とか代官所の記録は期待薄ですが、ひょとするとキッコーマン醤油に古記録があるかもしれませんね。
醤油は麦で作りますので、野田市全域から麦を買い集めたいた可能性があります。茂木家か高梨家に収めていた可能性がありますね。岩名村はの表土は筑波山火山灰の関東ロームの地層と
思われますので麦の栽培には適していると思われます。
江戸川の向うや、庄和方面は新田の地名が多く残りますので湿地帯を開拓してこちらは稲栽培と思われます。
庄和からイオンレイクタウン、埼玉スタジアムぐらいまでは湿地帯ですから、埼玉スタジアムを作る時、地盤が悪かったとされますね。キッコーマン本社があるあたりは江戸時代はなだらかな台地だったと思われます。

「亀甲萬」が簡単に見せてくれないかもしれませんが。

菩提寺 - 高須賀

2016/11/16 (Wed) 12:38:46

むーみんさん、本当にありがとうございます。とても勉強になります。菩提寺ですが野田市清水公園内にある金乗院となります。現在は真言宗豊山派です。江戸時代後期に火災で伽藍を焼失したと聞いたことはあります。同寺の過去帳を当たったことは未だありません。墓は旧岩名村村内にあります。江戸時代からの村の共同墓地で、高須賀諸家のほか、ともに土着したとされる家々の御霊も同じ場所に眠っております。

Re: 先祖の地 - むーみん

2016/11/16 (Wed) 22:30:14

【下総の高須賀家が豊臣方として大坂の陣に参加し、敗戦して落ちたことは、野田市の地元の郷土史家の方が取りまとめた本に記載されており、高須賀家のほか戸邉、逆井、大瀧などの数家がともに土着したとされています。家伝も同様です。】

上記の様に以前書かれてますが、ルーツ探しの発端となりますので再度確認したいと思います。

この話は高須賀、戸邊、逆井、大瀧家の伝承を後に郷土史家が取りまとめたのではないでしょうか?

野田市郷土博物館の昭和53年の佐藤 真氏の年表によると、

元和元年の条で、「野田市域内に残存する、旧家、名家中、大阪の陣の落武者、或いは落人を始祖と称する者多し」とし

真偽を確認していません。各家の伝承の根拠となる一次史料がどこも無いのかもしれません。
一次史料がどこかにありませんかね?

博物館に聞くと、豊臣の落人が天領に堂々と入り込むことはできないが、当時に野田界隈はみんなが見捨てていた土地なので勝手に入り込んで開拓することは出来たでしょうとのことでした。確かに出来高が悪く、百姓は天正年間から定着していません。勝手に入り込んでも開墾してもらえば助かるぐらいで大目にみていた可能性があります。キーコーマンの茂木家も豊臣の落人伝説があるそうですが、キッコーマン本社は「さあ~分かりません」としています。
他の落人とする家の文書を探せばなにか出てくるかもしれませんね。
野田は繁栄し始めるのは江戸川と利根川を切り替え上方の商品を銚子・野田経由で江戸に運ぶ水運の要になってからですね。
野田の醤油もマーケットに近い所で製造するために茂木・高梨
家等が続々集合しますね。現在のキッコーマンは有力醸造家が
組合を作った集合体会社ですので、文書は各家バラバラ所蔵のようですね。

それと落人伝説の戸邊は河岸問屋となった、戸邊五右衛門家のことでしょうか?

また、岩名村の石高がいくらあったかも調べる必要がありそうですね。
岩名村の庄屋をしていたのなら、畠高管理と年貢の徴収を百姓からしなくてはなりません。地図で見た感じ、水田は無さそうなので、畠作物程度しかなく、全体で150石前後が最大と思われます。最大を200石としても、年貢は六割程度とられるので、残りの80石程度で庄屋以下小作の人たち全部の
生活費となりますのでとても厳しい生活ですね。

調べますと庄屋の上の大庄屋はいないようですね。
野田市は関宿藩と違って、旗本の給領地となっていて一村一旗本の領地ようです。旗本も数百石から1万石までありますが、9割がたは500石以下ですので、貧乏ですね。よって年貢の取り立てまでは経費がないので庄屋に任せているようです。
庄屋が誤魔化すと困るので、名主に取りまとめを委任していたようです。

岩名村の場合は、高梨兵左衛門家が名主として目を光らせていたと思われます。現在、「国指定名勝の高梨本家上花輪歴史館」が名主兼陣所(役所)とされ高梨が委任されたとみています。
よって、庄屋関係の文書は高梨家に残っている可能性がありますね。高梨家は醤油も作りますので、大豆、小麦の仕入れが必要ですが、キーコーマンに問い合わせますと、史料がぼう大で
解読が間に合わないそうです。ただ当時の原料は茨城が主だそうです。

残るはお寺の記録ですね。

金乗院は応永5年(1398)頃、真言宗総本山醍醐派のして開山された野田市最古の寺だそうですね。現在は豊山派に変更されていますね。清水公園は金乗院の土地だそうで、キッコーマンが借地して公園解放をしているようですね。高梨、茂木家の財力と社会貢献は半端ではありませんね。

金乗院を調べると、

応永5年(1398) 金乗院開山
天正19年(1591) 徳川氏金乗院に寺領5石を賜う
天明2年(1782) 金乗院火災に遭う。19世良慶再建
天明3年(1783) 金乗院鐘楼焼失
寛政元年(1789) 金乗院仁王門再建
享和2年(1802) 金乗院護摩堂再建

とありますので高須賀家は金乗院の炎上は見ていたことになりますね。その後の再建にも協力しているでしょうから有力旦那として文書に残っているでしょう。

野田市郷土博物館の郷土史家によると、岩名の高須賀さんの菩提寺は岩名の真光寺さんと教えられましたので、調てみますとこちらも真言宗豊山派でしたね。野田市で3番目に古い名刹とされます。ただ、墓は新墓ばかりで、高須賀の名があるのは
新墓で「高須賀・臼井家墓」複数家墓で家紋は「三階松」でした。
高須賀家紋も「三階松」ですか?

貴家が菩提寺を金乗院としているのであれば、真光寺は高須賀分家が檀家になっているのかもしれませんね。

ともあれ墓を戒名を調べる必要ありますね。

墓や戒名は「一次史料」となりますので。

所で貴方は野田市岩名に住んでらっしゃるのでしょうか?
もしくは実家でしょうか?

先祖の地 - 高須賀

2016/11/17 (Thu) 15:34:27

むーみんさん、ありがとうございます。わざわざ各方面へお問合せくださったんですか?。感激しました。いくつか、即答できることから回答させていただきます。①家紋は御指摘のとおり三階松です。正確には丸に右三階が親戚一同共通の家紋で、本家としては丸に頭合三松を使用します。②真行寺は、旧岩名村の鎮守香取大神社脇にある寺ですが、比較的歴史が新しいのか、私の家は全くお付き合いはなく、金乗院の檀家となります。真行寺は平成になって
特に墓地を整備販売したようなので、高須賀でも江戸時代からの墓を持たない、新しい分家の分家や分家の新宅が購入したのかも知れません。③私は現在は野田市に住んでおりませんが、野田市岩名の出身で親戚も岩名です。実家は両親が高齢となってきたため、今は私の家におります。

先祖の地 - 高須賀

2016/11/17 (Thu) 16:01:44

そう言えば、確か、野田市市史編さん室発行の「岩名五木の民俗」によると真行寺はもともと岩名村の隣の五木村にあったのか、五木の村民が檀家に多いようです。大坂の陣落人の話は、岩名の郷土史家が書かれた「岩名の歴史」に出ており、各家の先祖や、各家の墓碑のもっと古い年数の一覧が書かれており、同じ一覧が「岩名五木の民俗」にも巻末資料で出てきます。一覧の原資料は、市史編さん室に寄贈された古文書と聞いたことがありますが、市史編さん室に問い合わせたことはありません。戸籍で一番古いのは、元治元年生まれとなる、私の三代前となりますが、その父の欄には亡父三郎兵衛となっており、過去帳では何代かにわたって三郎兵衛を名乗っていることがわかります。過去帳は不完全なもので、戒名、没年月日だけのものがほとんどで、わずがに三郎兵衛とか、三郎兵衛女房とか、出身地が記載されているだけで、人間関係、例えば誰の妻なのか娘なのかもよくわかり得ない内容です。

後藤又兵衛討死 - むーみん

2016/11/18 (Fri) 05:44:16

以前、後藤又兵衛は大坂夏の陣で討死したのではなく密かに生き延びた伝承があると書きましたが、17日に「後藤又兵衛討死報告」が京都で発見されたと、岡山県立博物館はリリースしましたね。
後藤又兵衛が道明寺の合戦で腰に重傷を負い、「もはやこれまで」と配下の金万平右衛門へ指示し、豊臣秀頼より拝領
の脇差「行光」で介錯したと秀頼へ報告した文書の発見で後藤又兵衛の生き延び説が歴史上否定されました。

このような「文書」が「一次史料」とされますので歴史の決定的な証拠となりますね。

NHK「真田丸」は後藤又兵衛の最後をどのように伝えるのでしょうかね? 収録済でしょうから「一次史料」のような展開にはならないでしょう。「早く言ってよ!」と嘆くチーフプロデューサーの嘆きが聞こえてきます。

ひょっとすると自刃の現場を高須賀三郎兵衛堯□さんも目撃していたかもしれませんね。

堀口堯氏 - むーみん

2016/11/18 (Fri) 08:36:51

紀州から伊予に来たとする系図を検討しています。

「伊予高須賀系図」は

 堀口備後守堯氏

初住紀州熊野
寛元2年(1244)航和気郡堀江甫
康元年中(1256~1257)
住久米郡熊畑邑
弘長年中(1261~1264)
道前と道後中山布船野城主
故有民間に下る。
高須賀高祖云々

と書かれていますね。

なぜ熊野から遠く伊予までやって来たのか知りたい所です。
船で堀江港(松山市)に着いてどこにいたのでしょう?

この時代の伊予は河野弥九郎通継が当主と思われます。
ただこの時代は伊予河野家は滅亡の危機を迎えています。
父通信が東北に流刑になったので領地はほぼ没収され伊予では
わずかに久米郡の石井郷しか残されていません。

堀口家は分家とは言え、鎌倉幕府棟梁家の一員ですので、家格は河野家より上の存在となります。

堀口備後守堯氏は幕府より領主として任命されてきた可能性があります。それが久米郡熊畑邑とも考えられます。よって一郡一領主制ともされるので、河野家を見張っていた可能性があります。後に通有の活躍で河野家旧領が復活し下城したのかもしれません。

「故有民間に下る」

古文書で「故あって」と書く場合は都合の悪い理由の場合が多いですね。ただこの中で「民間に下る」の表現が江戸中期以降の表現と思われ、「伊予庄屋高須賀家」に伝わる系図は江戸期の編纂物の感じがします。

「高須賀高祖云々」で「云々」と書きますがこれは「と云うふうに聞いています」とされ、証拠のない伝聞を意味してますので庄屋家は証拠文書を失っていると思われます。



下城した時の親族たちが、一部は戒能家へ引き取られ、一部は帰農し庄屋となったと思われます。
下城した時移り住んだ場所が「高須賀」と呼ばれていたのではないでしょうか?

今でも東京の誰、大阪の誰というように名字が同じなので地名で区別するのと同じ習慣です。

一般的に言えば名前は一郎、二郎、三郎、四郎と生まれた順につけていきますので、伊予庄屋の江戸期初代が高須賀一郎兵衛堯章とされ下総高須賀家家祖が高須賀兵庫三郎兵衛とするなら
長男家が帰農し三男家が戒能家に留まり武家であったことになります。「一郎兵衛」と「三郎兵衛」は所謂「通り名」で代々惣領(長男の意味ではなく家督を継いだ者)が引き継ぎますので手抜きの系図では同じ名ばかりが連なり混乱します。
ついでながら、「三郎二郎」「四郎一郎」とか書かれた人がいますが、これは「父親三郎が二番目に生んだ息子の二郎」の意味でそれぞれの順番を意味しています。これに「通字」が加わりますので名前の引き継ぎゲームが大変です。

かっては「一門」がファミリーの基本形ですので歴史のある家ほで複雑です。そこで考えだされたのが同門を意味する「通字」どの家かを識別する「通り名」、嫡家・庶家を識別する「姓名」、生まれた順を意味する「一、ニ、三、四」の組み合わせが考えだされました。姓名は一門の中の「立ち位置」を表していましたので名前を聞いただけで一族会議で座る順番が分ることもあります。これに官途名が加わるとその人の世の中の
偉い順位が分ります。

高須賀兵庫三郎兵衛 は官途名が兵庫となっていますので正しくは「兵庫介」だと思われ、与えたのは戒能の殿様と思われます。順位からすれば下から2番目位でしょうか?
この人の法名に「院殿号」が入っていれば、高須賀家は武士であり殿様であったの認識があるのでしょう。法名(戒名)は分りませんか?

よって伊予高須賀家は早くに帰農した家と武家を継ぎ、大坂の陣以降に帰農した家と二流あるものと思われます。

伊予不動記の「高須賀氏系図」はどのように書かれていますか?

同じ家でも本家筋と分家筋では持っている系図の内容が違います。また同じ家でも武家を保った家と帰農した家では「伝わる系図」の内容が全く違います。武家を保った家の方がきちんとした系図を伝えています。それは藩から定期的に身元調査が
あったからで帰農した家は読み書きできればオンの字程度で
宗派も家紋も通字の意味も引き継がれませんので、それぞれが
勝手に変更され、ひどいのになると、元祖まで変更してしまいます。もっとも、江戸末期までで苗字がある家は3000家程度しかありませんので、高須賀家のように名字があり、あちこちに資料が残っている家はルーツ探しは恵まれています。
幕末の人口の97%は苗字がありません。よってこの人たちのルーツは明治以降しかわかりません。



三郎兵衛の戒名 - 高須賀

2016/11/18 (Fri) 13:16:23

①三郎兵衛の戒名は、墓石・過去帳ともに玄譽禪定門で、貞享3年9月13日に没したとなっています。墓石・過去帳で最も古いのは、三郎兵衛が母の菩提を弔ったと思われる、為母菩提也、明暦元年8月6日というものです。②伊予不動大系図高須賀家系図は、木曽義仲の子孫とするもので、伊勢の地名より高須賀と称した、朝日山城主を務めた、という内容です。愛媛県の方がわざわざ画像を撮影してくださり、送っていただいものがありますが、今すぐ添付できる環境にありません。③伊予高須賀家の系図は、新旧川内町史に分割して収録されていますが、どう考えてもその間に数代、室町時代期の系図が抜けているように感じるのですが…。明治初期まで存続したようですが、現在の御子孫はどうなのかと思うところです。④西条誌にも、西之川庄屋高須賀家の家伝と歴代当主の名前が収録されています。この家は、石鎚山信仰と関わりが深く、長宗我部元親家臣高須賀行重という武将を祖とするとしているようです。これら伊予高須賀家の様々な家伝や系図については、東温市教育委員会がまとめた書籍に、わざわざ高須賀の項目をかかげて、いくつかの説がある的にまとめています。⑤むーみんさんより色々ご教示を頂き感じるのは、大坂の陣に参加したということ自体に対する疑問です。

メルアド - むーみん

2016/11/19 (Sat) 04:33:54

お気遣い有り難うございます。

伊予史談会所収系図の転送をお願いします。
メルアドは打っておきました。

愛媛県立図書館もかってはコピー依頼すれば、簡単に送ってきてくれたのですが、近頃は現地写真撮影のみとなったみたいですね。
かっては、伊予史談会史料の存在を知っている人はごくわずかでその中でコピーまでして欲しがる人は更に少なかったので勝手にコピーさせてましたね。私も、1日中コピーしたことがあります。それでも足りずに後日コピーサービスを依頼したことがありました。

地方の歴史のブームとインターネットのお陰で史料の存在が知れ渡り「コピーサービス」が増え図書館も面倒になったのでしょうね。「伊予史談会文庫」は県立図書館に委託保管されているだけなので図書館の所有物ではなく史談会のものですから
建前上史談会の許可が要ります。

伊予史談会を立ち上げ、充実させて来た、景浦会長親子や富永氏の努力がなければあれほどの資料収集は出来なかったでしょうね。伊予の歴史に携わる人は伊予史談会史料を無視しては何も書けません。

三郎兵衛の戒名 - むーみん

2016/11/19 (Sat) 06:39:57

①三郎兵衛の戒名は下総高須賀家初代の戒名ですか?

 貞享3年(1686)9月13日卒ですか。

 これが初代なら90才前後で死んだと思われますが、一代抜 けていませんかね?
 現代の衛生状態では不可能ではないのですが、当時で90近
 くまで生きるのは古来稀を通りすぎている感があります。

 理由は簡単なのです。時系列に検証すると・・・・

 慶長20年(1615)   大坂冬の陣豊臣方にて参戦敗北
            (この時は少なくても成人として
             参戦している筈なので15~25才)

 元和9年 (1623) 徳川幕府による豊臣方の参戦一族
            狩り、三代将軍宣下による恩赦に
            より中止。(これ以降の下総下着
            と思われます)

 明暦元年(1655) 母親卒

 貞享3年(1686) 初代三郎兵衛卒
            (推定年齢86~95才)

となります。

 となりますから長生きすぎるので、初代と2代目の混乱も
考えられます。
豊臣方落人なら下総下着は恩赦のあった1623年以降と考えられるのはそれ以前では豊臣方落人下着は困難であることです。

1624年にキーコーマンの有力家の醤油醸造家茂木家初代(本家)が同じく豊臣方落人として野田に来て帰農した。と「家譜」に書きます「キッコーマン醤油社史」

高須賀家もこのころ下着したと思われます。

このころ、野田の支配は郡代から、旗本が入交り、後に岩名邑
は天領(江戸中期)となったそうですから
このあたりの史料が出てくるともっとはっきりするのですが。

『三郎兵衛の戒名は、墓石・過去帳ともに玄譽禪定門』

とされているのならとてもシンプルですね。
「玄譽」(法名・戒名)「禪定門」(位号)となりますね。

院号、道号がついていないとすれば、引導を渡した僧侶は
葬儀に際し高須賀家を特別扱いしなかった考えられます。

②伊予不動記の系図は見てから感想を述べたいと思いますが、
 混乱していると思います。

 【木曽義仲の子孫】とは混乱していると思います。

 高須賀家は新田流堀口系とされていますので、同根ではあり ますが木曽義仲流ではありません。

 朝日山城を探索していますが、まだ見つかりません。

③伊予の高須賀系図はおっしゃる通り室町期が抜けています。
 
 高須賀源左衛門堯倫
住久米郡南方村為荘主
応永2年(1395)熊野神社再建

 から戦国期までの200年間の系図がありません。
 200年ですと普通は当主は10代近くいます。


しかしこの程度は普通のことです。
この空白を埋めるのが我々の仕事です。断片的な情報はあちこちに残っています。いもの時代これらを集めるのはそう難しくはありません。根気よくジグゾーパズルを埋めていくだけです。
西条史の「長宗我部元親家臣高須賀行重」もこの200年の空白に入っている筈です。土佐の長曾我部と結んだ伊予の家は多いのです。当時の長曾我部元親は日の出の勢いで、土佐の守護家一条家を飲み込み、軟弱な伊予守護家河野通直を日干しにしていました。河野家臣下も主家河野家に見切りをつけ長曾我部に臣従した家も多い時代です。

高須賀家探索は有意義ですね。

知られていない伊予の中世史と南北朝の動乱の実態が出てきそうですね。高須賀家の失われた200年の系図はこの南北朝の
動乱時代と同じです。伊予の高須賀家は元は「南朝」側と思われます。時の河野家当主は河野通堯(後、通直)が最初は南朝で後に北朝に変わりますが、この時、高須賀家(武家)は主要な役割を果たしていたと思われます。ただ名前はまで堀口しょう。河野通堯の「堯」の字を戒能家から高須賀家は拝領してと
一色敏衛門さんは書いていますが、私は逆だと思います。
堀口高須賀家当主から河野通堯が拝領した可能性があります。
通堯は南朝時代の名で北朝になると通直としているようです。

河野家も南北に分断され、南朝方は本来の河野家宗家である
得能家と土居家がいます。両家は最後に北朝の足利尊氏方に
より越前金ヶ崎で敗死します。この時、高須賀家の前姓堀口家


堀口一井貞政
(~1337)越前金ケ崎討死
堀口貞満
(1297~1337)越前討死

となります。ので得能、土居らと南朝の臣として敗死してます。

堀口備後守堯氏とは少し時代がはなれるようですが、系図の混乱でしょうね。

この時代の探索も必要です。






 

資料提供深謝 - むーみん

2016/11/20 (Sun) 07:49:47

資料の提供有り難うございます。

伊予不動記の「高須賀氏系図」を見ています。

この系図は「やっかい」ですね。
系図の最後が季張で終わっています。
「生きている」系図は最後に出てくる人は通常、最終編纂者の名か子か孫まで書かれており、書いた人は勿論自分の卒年は書けません。生きている系図は書き継ぎますので、字体が変わります。これらが一般的ですね。

伊予不動記には多くの家の系図が採取されてはいるのですが殆ど系図の体を為していないものが多いのも事実です。
伊予史談会はそれを承知で後世の研究の為集めたものと思われます。よって虚実入り混じっています。
一番多いのは出典不明なものです。出所の殆どが系図家ではなく第三者提供が多いのも特徴です。一般的には臣下か関係者宅に伝わる形式が多かったと記憶します。

前置きはさておき・・・・、

高須賀清太郎季張
(~1613/8/10)
慶長18年8/10卒
林昌院殿桂岩自広居士
住浮穴郡則之内村

が最終者ですね。

①この人の説明でこの系図の信頼性をガタと落としてしまいました。理由は単純です。慶長18年では則之内村(須之内村かも)は浮穴郡ではなく久米郡です。久米郡から浮穴郡に編入するのは松山藩主松平勝善が家督を継いだ1806年以降とされますのでこの系図の最終編纂もそれ以降となります。季張が死んで
200年経って書かれたことになります。
伝承系図ですとこの間も名前が代々出てくるのですが。

②木曽義仲、義隆、義重までは正史で確認できますので間違い
はないですが、義則は確認がとれません。

 居たとして考えますと、木曽義仲は最後は排斥されますので
 子孫も根絶やしとも伝わりますので人知れず逃げ延びた子が
 義則かもしれません。「伊勢高須賀に居住し高須賀を名乗  る」とされますが、現在の所、三重県に高須賀という地名を
 見いだせません。無理に比定するなら、松阪市須賀町あたり
 が想定されます。ここは桑名からの伊勢街道も、古代奈良か らの伊勢官道も通りますので交通の要所でもあります。
 次代の義詮が紀伊国(和歌山)奈智山(那智?)城主と伝え
 ますので、松阪から伊勢を抜け、尾鷲を通り那智までは熊野
 参道が走っていますので交通は容易です。
 もう一つの豫洲庄屋高須賀系図の和歌山から来たとする内容
 とここで符合はします。しかし時代がずれてはいます。

 私は伊勢の高須賀の地名はでっち上げたのではないかと思わ
 れます。もう一つの豫洲庄屋家に伝わる系図では下記のよう
 になっていますので、豫洲に来た時はまだ苗字は堀口です。
 新田流堀口は正史で確認できますのでこちらの系図の方が
 信頼性が高いと思われます。

 堀口備後守堯氏

初住紀州熊野
寛元2年(1244)航和気郡堀江甫
康元年中(1256~1257)
住久米郡熊畑邑
弘長年中(1261~1264)
道前と道後中山布船野城主
故有民間に下る。
高須賀高祖云々

上記では下野してから高須賀を名乗ったように思われます。

私は高須賀は河内町史が書くように、「久米郡則之内」は前は
「須之内」と書き、由来は東谷川と西谷川に挟まれた「洲」で
あったからとしますので、本来の意味の「高い三角州」に住んでいた堀口さんちを「高須賀の堀内さん」が高須賀に変化したと考えるのが自然と思われます。

③義詮を高須賀、野中両家の祖としてありますが、とするなら
系図線が違いますね。

④高光が河野通久に仕え朝日山城にいるとされますが、とするなら別系図の堀口(高須賀)備後守堯氏と同じ時代になります。私は堯氏を河野通継時代としましたが、通継の先代が通久
ですので時代的には合います。両系図はこの時代で合致しますが名前が違い「通字」も違いますので二流と考えられます。
朝日山城の名もでっち上げではないかと思われます。先祖が
かって居たからと書きますが、これは「朝日将軍」とされる
木曽義仲をイメージさせようとしたのでしょうが、義仲は伊予にはきていないと思います。後世別の城に比定する本が出て
いますが根拠はないのではと思います。

 (伊予古城砦記)高須賀某居る。所在未考
 (小松邑誌下編第七巻)旭砦、堀口堯の後胤高須賀某居之。

と書かれているようですが、「小松邑誌」が近いでしょうね。
朝日将軍木曽義仲がいたとするのは系図を補強するための修飾
と思われます。

そもそも伊予高須賀家は木曽義仲流ではないと思われます。
1800年以降に新田流を間違って、木曽流に繋いだ可能性
があります。断片的な伝承しかなかった場合よくあるパターン
です。

南方邑庄屋高須賀系図は下記の通り応永年間には帰農しています。

高須賀源左衛門堯倫
住久米郡南方村為荘主(南方村の庄屋になりました)
応永2年(1395)熊野神社再建

それに対し「伊予不動記高須賀系図」は天正年間は城主であることが法名から想定できます。

高須賀伊賀守季永
(~1585/8/6)
天正13年8/6新居郡野々市討死(これは秀吉の伊予征伐の時)
俊得院殿自相自源大居士

次代の

高須賀清太郎季張
(~1613/8/10)
慶長18年8/10卒
林昌院桂岩自広居士
住浮穴郡則之内村

で名家ではあるが、城主では無くなったことを思わせる法名です。

下総高須賀家が大坂の陣へ参戦するなら武士でなくてはならないので高須賀伊賀守季永流でないと辻褄が合いません。

系図等の齟齬がある可能性がありますが、「大坂の陣」には
他の下総下着組みと同様、なんらかの理由があると思います。

他家と共通項があると思います。





伊予高須賀家 - 高須賀

2016/11/20 (Sun) 13:08:03

むーみんさんの解釈には全て納得させられます。伊予の歴史に詳しくないので、これまで正誤も分からないまま、漠然と資料を見ていました。高須賀末裔の私としては、木曾義仲の末裔系図よりも、堀口堯氏の末裔系図の方が正しいのではないかと思っています。室町時代の系図が抜け落ちてる件に関して一つ思い出したことがあります。広報かわうち昭和57年7月に、伊予高須賀家の本家筋に当たると思わられる南方庄屋高須賀家が関わった江戸時代の村の紛争記録の研究記事が連載されており、そこに初代高須賀源左衛門堯倫から高須賀光十郎堯普まで20代庄屋役を務めた…というように書かれています。旧川内町史にある系図の堯倫から、新川内町史にある系図の堯普までを20代としていることから、室町時代を繋ぐ系図が存在する可能性があるのかと思っています。ただ、この記事の中では高須賀半助堯民を9代目としており、矛盾があるように感じますが…。広報かわうちは、愛媛県立図書館の郷土リンクで閲覧可能です。

庄屋高須賀 - むーみん

2016/11/20 (Sun) 16:16:01

郷土リンクで昭和57年にたどりつきません。

【初代高須賀源左衛門堯倫から高須賀光十郎堯普まで20代庄屋役を務めた…というように書かれています。旧川内町史にある系図の堯倫から、新川内町史にある系図の堯普までを20代としていることから、室町時代を繋ぐ系図が存在する可能性があるのかと思っています。ただ、この記事の中では高須賀半助堯民を9代目としており、矛盾があるように感じますが…。】

高須賀源左衛門堯倫を初代と位置つけているのは「庄屋」としての初代の意味なのでしょう。
須賀光十郎堯普がいつの人かこの文章ではわかりませんが、20代は簡易的には一代20年と計算しますと、400年間に
あたりますので、堯倫から400年は1800年代から1900年代
頭となりますね。堯民はこの間の人ではないですか?

一代を20年で計算すると「馬鹿か」と云う人がいますが、
人生50年の時代ですから、家督を継ぐのが平均二十歳前後、40過ぎると隠居届を出して隠退するのが普通ですから一代を20年
平均にしています。但し長い人とさらに短い人がいますので加重平均の簡易数値です。庄屋なんかは、原則失業はないのですから、早く息子を育てて隠居したがります。今と違ってハッピーリタイヤです。隠居したらお伊勢参りや、道楽三昧が待っていますので息子の成長は楽しみです。息子が出来なければ妾を入れて息子ができるまで頑張ります。家は嫡男が継ぐのが原則ですから、妾はいくら囲っても構いません。この場合正妻も文句が言えません。それでも子ができない場合は養子しかありません。伊予の庄屋は殆どが元の豪族ですので、先祖の土地を守るため庄屋を志願し、元の領地に一族を配し、跡取りが居なくなれば親戚から養子を送り込みます。庄屋の男子は親戚の跡が空かないか待ってます。娘も親族の男へ嫁すのが常態化して
いますので近親すぎる場合もあり遺伝子的な不都合や天才が出る場合もあります。

川内町の殆どは領地としては戦国時代は戒能家のもののようですから戒能家譜代の臣の高須賀家と早く帰農した高須賀家があったのでしょう。譜代の臣と言っても郷士と同じで半分百姓をしていたと思われます。

室町中期までの戦争は農繁期を避けて行うのが武士道です。
兵隊の殆どは半農ですから、田植えと稲刈りは女子供に任せません。戦争する殿様も農繁期を無視すると年貢が回収できませんから休戦タイムです。

下剋上の戦国期になると、田植えの時期も稲刈りの時期も戦争を起こす領主が出てきます。植えた苗をひっくり返す「田おこし」収穫期の稲を勝手に刈り取り奪う「はや刈」等が戦術に組み込まれはじめました。土佐の長曾我部軍は何度もこの戦法を使ってますね。

まあ庄屋高須賀家にはなんらかの名前が残っているのでしょうね。

訂正 - 高須賀

2016/11/20 (Sun) 17:55:16

高須賀堯章の子高須賀源左衛門堯忠の誤りです。堯倫ではなく堯章の子です。

庄屋高須賀系図 - むーみん

2016/11/20 (Sun) 23:31:49

添付資料は届きました。

各資料は好き勝手に書いているようですね。もっとも書いた時期が違うし筆者も違うので止む得ない面もありますが。全く別史料と検証してないのでしょう。

①代数がよく分かりません。
 最後の戸長高須賀吉(光)十郎堯晋を20代目とするなら
 少なくても9代分たりません。
 1402年の高須賀源左衛門堯倫から天正年間と思われる高須賀 一郎兵衛堯章までが抜けています。ただこの間で9代もいる とは思われないのでカウントが違うのでしょう。







河野氏 - 高須賀

2016/11/22 (Tue) 18:43:52

別の河野氏関係サイト掲示板熱いですね…。河野氏はさすが名族だけあってご子孫も由緒がはっきりされてるのでしょうか。私は自分の家に誇りを持っていますけど、私の家は誰の末裔で家系はこうだと言える方が羨ましいです。
むーみんさんも本来のご専門、研究対象は河野氏ですか?。伊予の歴史にお詳しいので愛媛の方なのでしょうか?。それにしても国衆の名前が多数ありましたけど、どう見ればいいのか分かりませんでした。少なくとも高須賀家の名前はなかったなあ…ちょっとがっかり。高須賀家なんて河野氏のご子孫にしたら家臣の陪臣の家系と笑われそうですね(笑)。私には誇りであり敬うべき家系、先祖ですから気にしてませんけど。伊予の歴史って本当に深いですね。

河野氏 - むーみん

2016/11/22 (Tue) 22:19:20

あはは(笑)

別サイトの河野氏問答は児戯に等しいレベルですからあまり本気にしないでください。誰が何に基づいて書いたか分からないWEB上の「伊予国人衆」を信じて話を展開している人がいますが「全く勉強していません」と公表しているのと同じです。

「伊予国人衆」は歴史好きな人が色んな本を漁って苗字別に羅列しただけのメモ帳ですから、伊予の歴史を真面目にしている人は「この根拠不明のWEB上のメモ」は信用しません。

歴史上の話をするときは本来は「出典」を明記する必要があります。出典のないものもしくは答えられない記事は信頼がありません。出典も「一次史料」「子引き資料」「孫引き資料」と変化していきますので、一次史料以外は信頼がおけません。

【国人衆】の見方は、姓名を書いて、次に子を順番に書いている
だけです。12331289,====1345なる数字は生年と没年で====は不明という意味で「?」は「分かりません」の意味です。

筆者は色んな本から引用していますので間違いが多いのも特徴です。私の調査の対象者書いていますが、半分間違っています(笑)

私は愛媛ではありません。高須賀家と同じく伊予を追われたとされます。

高須賀家は

清和源氏新田流高須賀家ですので、伊予河野家よりは家格ははるかに上です。河野家は源平合戦に源氏方に味方したことにより繁盛します。そのあと鎌倉幕府を引き継ぐ足利尊氏になびいて家を守ります。一時期は歯向かって家断絶に一歩手前まで行きました。高須賀とこのサイトの一色さんは同門です。
野田の一色さんはこのサイトの一色さんの本家筋です。
もっともどの家も応仁の乱で内輪もめしていますので一筋縄では理解できません。新田氏も源氏一門の中の内輪もめで子孫が流転します。その一派が伊予高須賀家と思われます。伊予高須賀家系図はあと200年分繋がらないだけです。応仁の乱や南北朝時代を経ていますので資料が極端に少ないのです。

200年分を除く伊予高須賀想定系図は出来ていますが、あちこち
で辻褄が合わないので、補強史料を探しています。

伊予河野家 - むーみん

2016/11/22 (Tue) 22:32:58

伊予河野家の末裔と称する人は全国にいます。
北は北海道から南は鹿児島まで土着していますのでそれぞれが伝承や各家「正統系図」をお持ちの方が多いので、どの系図が正しいかの論争が延々続いている家系です。

色んな系図がありすぎるのが元凶です。
今なら、1000種類くらいあるのではないでしょうか?
末端の家毎にあり、明治以降沢山創作もされたともされます。

河野家のDNAなのかどの家も「我が家が正しい」と言い張ります(笑)
元祖が2系統ありまずここで喧嘩します。
次に、途中で越智家と河野家の由緒について意見が二つにわれます。その次に本家筋と庶家筋と喧嘩をしています。(笑)

これらの経緯を書くと本が数冊書けます(大笑)

目的 - 高須賀

2016/11/23 (Wed) 07:12:38

むーみんさんの教示は、本当に分かりやすく納得させられます。皆さん、自己の家系への誇りがあるのは同じなのでしょうね。私自身は、本当の家系であって、探索の結果その行き着く先が例え無名の士でも全然構いません。むーみんさんの言ってくださるように清和源氏の末裔としても、それだけで先祖たちは歴史を乗り越えて来られた訳ではないと思います。時には成功し時には失敗し、時代の荒波に飲まれながら、戦乱や疫病などと戦って、必然と偶然の重なりの中で家系を遺したのだと思います。だから私がこの世に存在していることは、全ての先祖のおかげであり、尊敬し誇りに思い、感謝して供養し、そして私の子孫に伝えたいのです。私が自分の血の歴史に興味を持ったのは、10歳の時です。当時は、祖父の昔話もよく理解できませんでしたが、今思えばその話の中に多くのヒントがあったと感じますが、残念ながらはるか以前に祖父は既に亡く、記憶も断片的でしかありません。跡取りとして育ちながら、現代の職業の因果から先祖の地には一族と菩提寺、墓所を残して生活する日々は、むしろ故郷を思わされます。愛媛県は、今から約25年前に1度だけ、社員旅行で訪ねたことがあるだけで、そこが先祖の地とも知らず、松山城、道後温泉を巡った記憶しかありません。いざ故郷を知り、訪ねようとすると、仕事の都合上など様々な理由が重なり、訪ねることもまだ叶わずにいる状態です。何が言いたいのか分かり難いかと思いますが、私の家系研究の目的は、私の心の中にあり、対外的なものではないのです。200年…是非埋まるといいな、頑張ろう…そう思わせてくださったのは、他でもないむーみんさんです。本当に感謝です。

高須賀家のあゆみ - むーみん

2016/11/23 (Wed) 10:09:01

先祖に対する感謝の気持ちと執念があれば、空白のジグゾーも見つかりますよ。必ずどこかにヒントがあります。

今までの提供資料等で「高須賀系図」をまとめてみますと下記の通りです。伊予南方村庄屋高須賀をベースにしてみました。
途中で200年分不明ですが、調べれば出てくると思います。
下総高須賀家は1623年以降の野田土着と思われますので、それ以前の南方村高須賀家の分家流と考えればよいでしょう。

【伊予高須賀系図】

清和天皇
(850~881)
   ⇓
貞純親王
(873~916)
   ⇓
経基王
(~961)
   ⇓
源 満仲
(912~997)
   ⇓
源 頼信
(968~1048)
   ⇓
源 頼義
(988~1075)
   ⇓
源八幡太郎義家
(1039~1106)
   ⇓
源 義国  【鎌倉将軍家頼朝と木曽義仲は兄義親の系列】
(1091~1155)
   ⇓
新田義重  【新田家祖】
(1114~1202)
   ⇓
新田義兼  【弟、瀬多田(得川)を徳川家の元祖とする加冒カ)
(1139~1206)
   ⇓
新田義房
(1162~1195)
   ⇓
新田政義
(1187~1257)
   ⇓
堀口備中守家員(貞)【堀口家祖】
   ⇓
堀口備後守堯氏   【高須賀家祖】
初住紀州熊野
寛元2年(1244)航和気郡堀江甫
康元年中(1256~1257)
住久米郡熊畑邑
弘長年中(1261~1264)
道前と道後中山布船野城主
故有民間に下る。
高須賀高祖云々
   ⇓
高須賀次郎作(衛)堯寧
弘安年中(1278~1288)
住久米郡川上野口郷
   ⇓
高須賀次郎作(衛)堯重
   ⇓
高須賀九郎兵衛堯尋
   ⇓
高須賀源左衛門堯倫  【南方村庄屋家初代】
住久米郡南方村為荘主
応永2年(1395)熊野神社再建
南方?戒能配下?

この間約200年間不明(要調査)


   ⇓
高須賀一郎兵衛堯章  

天正年間?(1573-1592)
   ⇓
高須賀源左衛門堯忠  【下総高須賀はこの代まで在伊予】
室戒能通森女
慶長年間?(1596-1615)
   ⇓
高須賀半助堯民
享保4年-5(1719-20)記録有
   ⇓
高須賀勝蔵安右衛門麻堯 【高須賀安右衛門照堯かも】
享保11-13(1726-28)記録有
   ⇓
高須賀仲次郎堯実
安永8-天明2(1779-1782)記録有
   ⇓
高須賀相右衛門熙堯
   ⇓
高須賀源左衛門堯廣
   ⇓
高須賀栄左衛門堯芳
享和元年(1801)記録有
   ⇓
高須賀富三郎堯通
嘉永2(1849)記録有
   ⇓
高須賀吉(光)十郎堯晋 【庄屋20代目】
里長(1871)戸長(~明治19年)

【現在はこの方のひ孫か玄孫が当主と思われます】(要調査)








 







   

木曽義仲流高須賀系図 - むーみん

2016/11/23 (Wed) 10:36:48

伊予には木曽義仲流とする高須賀系図もあるので併せてUPしてみましょう。木曽と新田を混乱した可能性もありますが
今後の検証に任せましょう

【木曽義仲流伊予高須賀系図】

清和天皇
(850~881)
   ⇓
貞純親王
(873~916)
   ⇓
経基王
(~961)
   ⇓
源 満仲
(912~997)
   ⇓
源 頼信
(968~1048)
   ⇓
源 頼義
(988~1075)
   ⇓
源八幡太郎義家
(1039~1106)
   ⇓
源 義親   【ここから分かれる】
   ⇓
源 為義
   ⇓
源 義賢
(1126~1155)
   ⇓
源木曽義仲
(1154~1184)
   ⇓
高須賀義則 在伊勢國高須賀称高須賀
   ⇓
高須賀義詮
紀伊那智城主
   ⇓
高須賀紀伊守高光
河野通久仕、久米郡朝日山城
   ⇓
高須賀大炊介光輝
   ⇓
高須賀弥之助光季
   ⇓
高須賀加美守季平
   ⇓
高須賀右馬助光時
   ⇓
高須賀中務介季時
   ⇓
高須賀伊賀守季永
(~1585/8/6)
天正13年8/6新居郡野々市討死 【秀吉の四国征伐カ】
俊得院殿自相自源大居士
   ⇓
高須賀清太郎季張 【下総高須賀家はこちらの分家かも?】
(~1613/8/10)
慶長18年8/10卒
林昌院殿桂岩自広居士
住浮穴郡則之内村

 以下不明(要調査)

これまでの資料が集まりましたので後もう少しです。

このブログをご覧の方で情報をお持ちの方はお寄せ下さい。




下総高須賀家調査 - むーみん

2016/11/23 (Wed) 11:03:27

子供のころに祖父に昔語りを聞いたのなら、祖父のメモを実家で探すことですね。以外と蔵の奥とか、骨とう品の中に紛れているものです。高須賀家は古い家ですから、どこかに古文書が残されていると思います。名主(庄屋)をしていますので、毎日帳簿は付けています。出納帳や、納税田畑帳、資産台帳、
大福帳、借入帳等はかってはすべてあった筈で家では古くても
貴重資料ですので火災に遭わなければどこかにあります。
御両親に聞いてみたらいかがですか?
別途本家があるならそちらにあるでしょう。
それらの中に紛れている可能性があります。

初代の由緒が分れば、伊予の本家は分かります。
副産物としてキッコーマンの高梨家の詳しい由緒が分るかも?
たまたま私の知人に野田の戸邊家の知り合いもいますのでこちらから調査できるかもしれません。

感謝 - 高須賀

2016/11/23 (Wed) 17:01:54

むーみんさん、本当にありがとうございます。
手持ちの資料を色々見ていたところ、空白の200年の一つのパズルが見つかりました。南方庄屋初代堯倫の子が堯基であるとメモしてるのですが、出典が思い出せません。むーみんさんのご教示のとおり出典が大切であることが分かりましたのでもう一度良く出典資料を探します。おそらく新旧川内町史か東温市の出版物だと思いますが…。1代分かって20年埋まる計算でしょうか?。頑張ります。
また、祖父の遺品をもう一度確認してみます。

高須賀堯基の出典 - 高須賀

2016/11/23 (Wed) 18:50:33

高須賀堯倫の子高須賀堯基の出典が見つかりました。旧川内町史252ページ川上大宮神社史略にある、「応永中、高須賀堯倫、河野家ニ仕へ、南方村荘屋ヲ命ゼラル、尋テ其子堯基荘屋トナリ、河野家ヨリ、其祈願所川上稲荷五社大明神ノ社之守ヲ命ゼラレ、尚宝庫国封ノ鍵ヲ預ラル、而シテ社之守ハ高須賀家代々継承シ、堯普死スルニ至ツテ止ム」です。この文からは、①堯倫は河野家に仕えたこと。②庄屋は河野家より命じられたこと、③堯倫の次代は堯基であること、④代々、河野家より社之守を命じられていたこと、⑤社之守は、庄屋20代?堯普の死去をもって終焉することでしょうか。あくまで三次資料となりますが、空白の200年のうち20年を埋めるピースになればと思いますがいかがでしょうか?。

高須賀 - むーみん

2016/11/24 (Thu) 08:00:30

ジグゾーのピースが一つ出てきましたね。
貴方の想定通りと思われます。

①の河野家は河野通之のことと思われます。
 河野通之は河野九郎伊予守通義(能)の弟され【異説も有】
 本家と分家で内輪もめを始めます。
 本家を「惣領家」この分家を「河野予州家」と分けて伊予
 の河野家主従は二つに割れて勢力争いを繰り返します。
 則之村(川内町)河野通之の勢力下にあったと考えられま  す。根拠は「1397年河野通之大野森山知行を則之村安国寺へ
 寄贈」するとの「寄進状」が残っていることです。
 高須賀系図は「高須賀堯倫熊野神社創建(1395年)」と記録
 されていますので同じ(川内町)です。
 領地の実質的に経営していたのは河野通之配下の戒能氏と
 思われます。

 「1397年河野通之は大野・森山の知行地(土地)を取り上げ て安国寺へ寄進」との書状がぽつんと残っており、今まで
 何を意味しているか分かりませんでしたが、今回の高須賀探 索で意味が分かりました。この大野・森山は伊予小田の人で
 河野本家寄りなので、嫌がらせで取り上げたと思われます。
 この地域は戒能の縄張りなので、後で、大野・森山はこの
 土地を取り戻そうと後の代で戒能氏と戦います。

 高須賀堯倫の時の大野家は大野四郎次郎繁直の代で、あおり で 家が断絶します。次代の大野宮内少輔通繁の時、美濃国 守護土岐成頼の援助を受けお家再興を果たします。通之に盗 られた土地の取り戻す戦いを起こすのは更に後の代になりま す。(大熊城の合戦)

 高須賀堯基の発見で20~30年は空白が縮められました。
 残りはたぶん3名だと思います。そうすれば堀口備後守堯氏
(高須賀初代)から高須賀吉(光)十郎堯晋までで20代と
 なり辻褄が合います。
 問題はこの3名です。
 次代背景からすると、河野家内訌が起こったあとにこの失わ れた200年の間にさらに天下を二分する「応仁の乱」が起こっ てしまいます。全国で同じ家でも殺しあう状態が起こりまし たので記録をきちんと残せるような状態ではありません。
 どの家の家譜もこの辺りは空白か間違いが多いのもこうした
 次代背景です。

 となると後3代は河野家でも「河野予州資料」「戒能家資  料」等の発掘が欠かせませんね。河野家は最終的に分家は本 家に統合されますので負けた方の資料は少ないのも仕方あり
 ません。戒能に味方したのは「平岡家」がありますがこちら
 の資料も乏しいですが、いづれにしろどこかにはあるでしょ う。
 川内や荏原を含む浮穴郡はかっては美濃土岐家の領地でした がこのミッシリング時代に豫洲家の命で平岡家が横領しまし た。この時手を貸したのが、戒能、高須賀と思われます。
 
 尚川内町史が
 
 「南方村荘屋ヲ命ゼラル、尋テ其子堯基荘屋トナリ」

 の表現は誤解します。たぶん歴史的知識が無かったのでしょ う。
 所謂庄屋制度は江戸時代から統治制度の一つとして定着して
 おり、藩により、庄屋、庄官、関東地区は名主等の名で呼ば れていますが、戦国時代までは庄屋はいません。

 高須賀家も高須賀一郎兵衛堯章までは一領主です。
 初代に「荘主」と書いてあるのは領主の意味と思います。
 荘とは荘園の名残で、平安時代から室町にかけての地方の
 経済単位で後に「庄」との土地の区画単位に変化していきま す。後世、荘主を庄屋と勘違いし、町史は書いたのでしょ  う。荘主と庄屋の違いは、半農半士であるか否か
 でしょう。戦国時代までは誰でも刀を持っています。
 荘主(領主)はいざとなったら主家のため鍬を捨て刀を持っ て戦闘に参加します。「すわ鎌倉!」の制度です。

 これは「無償で上司に奉仕」しますので「ご馳走」と表現さ れます。現在では「ご馳走」は持ってる者が持ってない者
 に飲食させる意味で使いますが、本来が逆に意味ですので
 古文書を読む場合は注意が必要です。
 これに対し物騒だから、「刀狩り」で武器を取り上げ、百姓
 らに戦いに参加させないようにしたのは秀吉ですね。

 徳川時代は平和になったので行政職制として「庄屋」とし
 ました。元武士だから、「刀と苗字くらい許して」との願い が元領主を庄屋とした家から沸き上がりましたので、

 「頑張って業績を上げるか、年貢か金を多くだせば、許して
 あげないことはないよ」とし、「差許苗字帯刀」なるプレミ アムを付けましたがこれは江戸時代の話です。

 領主となれば「一国一城」の主ですから、戦国時代までの
 高須賀家は領主です。上の上司が戒能家で戒能家は河野家の
 家来です。みんな下々から見れば殿様ですが、この時代一番
 偉いのが「お屋方」です。伊予の中世で「おやかた」と表現
 される場合は河野家惣領を指す場合が多いのです。他は官途
 名を付けて区別しています。同じ官途名でも時代により人が
 違います。

 あともう少しですね。背骨が通ればあとは肋骨や身を付けて
 いけばよいでしょう。
 











荘主・庄屋・名主 - 高須賀

2016/11/24 (Thu) 20:32:26

荘主・庄屋・名主のご教示に凄く納得し良く理解しました。確かに下総高須賀家の者が命ぜれたのは、岩名村の庄屋ではなく、正確には岩名村名主という表記がされています。ただ漠然と、名主って庄屋のことでしょ?と簡単に理解して、岩名村の庄屋と言っていましたが、良く理解できました。
河野家予州資料、戒能家資料…どのように発掘すればいいのでしょう。色々勉強してみます。
戦国時代後期の人物として、河野分限録に記載のある高須賀左京(右兵衛)、西條誌に記載のある高須賀行重とその子孫の西之川庄屋高須賀伊兵衛家がどう繋がるのか?、また則之内庄屋高須賀家の木曾義仲家系図をどう理解するのか、本当に興味が尽きません。

実は、悩みの種はもう一つあり、下総高須賀家の庶家の関係がはっきりしないのです。当家は、下総高須賀家の宗家として、本家と言われる家のさらに本家とされ、初代三郎兵衛の位牌、墓、過去帳を継承していますが、過去帳は以前お話ししたとおりですし、庶家がどのように分家していったのか、岩名村に土着してからの記録も不明な点が多いです。

まだまた難題が沢山ありますが、言い換えればだからこそ謎解きも楽しいのかも知れませんね。頑張ります。

【余計な話】
別サイトの掲示板…ずっと拝見していますが、兄弟というか、同一人物の方ですね…。表現や言葉使い、感嘆符の使い方など文章の類似性が高い部分が沢山あります。きっと、お気付きでご承知でしょうけど。


高須賀家 - むーみん

2016/11/25 (Fri) 09:18:51

河野家予州家資料、戒能家資料は直接的なものは公式にはほぼないと思われます。

①公式的(図書館や本)にはないものは私的には有る可能性があります。但し、現地での聞き込みが必要ですが。

②もう一つの手法は周辺の関係者の資料を集めることです。
一見なんの意味もなさそうですが「高須賀〇〇のお陰てでこうなった」とかの断片資料が出てきます。それをつなぎあわすと
当事者たちと当時の状況が浮かびあがります。

高須賀家を調査することで私の研究テーマも進化しています。
私の方は戒能家と敵対した方を調べていますが、戒能家を調べても出てきまさんでした。この度の高須賀家情報で敵対の因果関係が分かりはじめました。一つ謎が解けると次々に謎が解けていきます。

いかに現在伝えられている歴史はいい加減かが分かります。

「歴史書は為政者の為に作られる」と19世紀最大の歴史学者
ランケは言いますがその通りです。

日本史も勝った人による記録です。これは中学高校で習う「歴史」です。

ネット社会はこれらを次々と改定しています。埋もれていた史料が次々とUPされるからです。

愛媛県史を改定しなくてはならない可能性のある作業を私と貴方で今しているようなものです。高須賀家の伊予における実態が明らかになると、現在伝承される河野家支配の内容が変化し
愛媛県史を書き直す必要がでてくるかもしれません。
町史や県史は当時の資料だけで書いてますから結構間違いが多いのです。それも殆ど分担して1人で原稿を書いてますからその人の知識と収集した資料以上のものは書けないのは当たり前です。

現在電子図書館の「ウイキペディア」が色んな投稿を集めて歴史を解説していますが、史実と虚実を混採していますので、玉石混淆の代物ですから、注意が必要です。まだ相当数、嘘が書かれていますね。出典が俗論からが原因でしょう。

下総高須賀家の調査は伊予高須賀家を調べるより簡単ですよ。

親戚の思われる方が分っているのですから、片っ端から聞いて歩けば良いだけです。最初から全部を知る必要はありません。
所謂三親等くらいまでは分るでしょうから、そこから手を付ければあとはイモずる式です。親戚の親戚は親戚です(笑)

「下総高須賀会」なる会を発会させて、関係者を集めて、その時に先祖に関する資料を持ち寄らせればすむことです。
個人より集団の方が強いです。

貴家は恵まれています。下総高須賀家の宗家筋のようですから
各分家は惣本家の号令には異を唱えるのは難しいのです。
これが分家の分家が号令すると、知らないふりする家が出てきます。
もう一つ恵まれているのは、現在の野田市を作った、高須賀家、戸邊家、逆井家、大瀧家 高梨家、茂木家の一員ですので
高須賀家の歴史が分ると他の家の歴史もひも解けます。
これには、野田市編纂委員会が必ず興味を持ちますので構想を持ち込めば協力してくれると思います。
高梨家、茂木家のルーツまで絡めば、キッコーマン㈱が協力してくれると思います。
高梨家は高須賀家と同じ、豊臣落人説がある家ですので、高須賀家伝承は興味があると思われます。
キッコーマン社史の担当部署は「キッコーマン国際食文化研究センター(04-7123-5217)です。

下総は自分の足元から固めれば簡単です。
惣領家当主の呼びかけなら分家も協力してくれると思います。

なおご存知と思いますが、「庶家」とは普通の分家のことではなく「妾の子の家」を意味しますので、歴史用語では使いますが通常会話では使用致しません。

戦前までは妾は金持家では普通でしたが、戦後はアメリカ流の「一夫一婦制」が強制されましたので原則ないことになっていますが、時折、認知問題が起こるのがこれです。
正妻から生まれた子を「嫡子」とし妾から生まれた子を戦前は「庶子」戦後は「非嫡子」と戸籍はわけます。

マッカーサーが押し付けた「一夫一婦制」が一見デモクラシーのように見えますが、世襲を前提とした日本社会には合いませんでしたね。最大の被害者が天皇家です。日本国憲法および
皇室典範は正室の男子しか天皇家の継承ができません。

今、次世代を担う継承者は一人しかいません。天皇家存亡の危機です。有史以来「万系一世の天皇家」が日本の誇りです。
これを支えるために「お腹借り制度」がありました。
「女系天皇」と「女性天皇」を理解しない人も多いですね。
現在この制度を言うと女性群から総攻撃を受けます。
マッカサーの思うツボです。
近頃の大学生は「マッカーサーって誰?」と言っている
時代ですから説明が難しいですが。

マッカサーが作った現在の「日本国憲法」と「皇室典範」に
より、日本人の精神的支柱である天皇家を廃絶しようと70年前に考えられた「憲法」です。それがとうとう現実味を帯びてきました。
現在の「生前天皇退位論」もこれらの一環ですね。
「可哀想だから辞めたいと言っているのだから辞めさせてあげれば」意見を大衆が推していますね。
退位しても生きているのですから、前天皇と現天皇の二元制が発生します。下々は自分に都合の良い天皇を担ごうとして政治は必ず混乱します。日本の歴史はこの二元政治で何度も内乱を起こしました。法皇派と天皇派の争いです。
「そんな昔のようなことは起こる筈がありません」と云う人がいます。
もし、前天皇を自民党が支持し、次天皇は共産党が支持したら
国内はどうなるでしょうか?「そんなことはあり得ない」と言うでしょうが、政治は所詮、権力闘争です。政権を握るためにはなんでもするのが政党です。

話が飛びすぎました。野田の親族も古い方は亡くなる目前かと思われますので時間との勝負ですね。

私も聞きたい人や研究家はみんな死んでしまいましたので生きているうちにコンタクトを取ればよかったなと後悔しています。

高須賀堯章 - 高須賀

2016/11/26 (Sat) 18:34:05

高須賀堯章の年代については、寛永頃のようです。出典は旧川内町史253ページ下段の「寛永四年、高須賀堯章南方村荘屋トナリ、浮穴郡荘屋頭ヲ命ゼラレ、領主ヨリ乗馬ヲ賜フ」南記。「当時堯章ハ当神社ノ社頭守タリ」伝承。です。南記がどのような資料なのか不明ですが、川内新町史収録の高須賀家系図の最初の堯章が寛永四年頃の人物とすると、系図は全て江戸時代から明治初期の歴代となるのかと思われます。とすると、初代堯倫・2代堯基から11代堯章まで、やはり室町時代期の欠史9代、200年〜180年の空白と見るべきといったところでしょうか。大坂の陣参加伝承の解釈をさて置き、一郎兵衛堯章と三郎兵衛兵庫の兄弟推定はやはり無理かなと考えています。

欠史9代→8代 - 高須賀

2016/11/26 (Sat) 18:38:39

堯基が分かったので欠史8代ですね。広報かわうちの記事にいう、20代説が正しいとすればですが。

代数 - むーみん

2016/11/27 (Sun) 06:30:08

堀口備後守堯氏   【高須賀家祖】を初代とすると
後3代(3人)でしょう。

高須賀源左衛門堯倫  【南方村庄屋家初代】から数えると
残り8代となりますが、堯基からは100年程度の空白ですから8人は多すぎます。やはり3人が妥当ではないでしょうか?

系図上の代数と言うのは筆者が誰を初代にするかにより決まりますので、同じ家でも系図の保存家で違います。
宗家が一番多く、分家は分家初代を一番に数えますから少なくなる傾向です。
どうしても天皇の末裔に作りたい家は長くなったり、「この間16代略)とかしてしまいます。

戦乱時と飢饉、及び疫病時期は代数が極端に短くなる時期もありますので、当時の社会情勢を見る必要もあります。

あまり意味なく代数の多いのは、系図線の消えたものや過去帳を基にした場合、兄弟をそれぞれ一代づつで清書した場合もありますから異常に長くなりますが書いてる人は代数が多いほど
名家と勘違いしていますから、後に、生没年等の属性情報で
矛盾を指摘されます。


空白 - 高須賀

2016/11/27 (Sun) 11:05:32

堯倫の生存が確認できるのが熊野神社勧請の応永2年1395年、堯章の生存が確認できるのが庄屋任命の寛永4年1627年であるとすると、その間約200年となり、20〜25年一世代として、堯倫の子堯基を含めて、8〜10代の空白と考えたのですが…。
伊予史談会双書5集収録の河野分限録〜天正3年1575年通直期〜に、
「湯月殿直勤之御旗本近習衆
久米群衆
  佐伯強右衛門尉  玉井武蔵守  玉井 将監   
  志津川修理之允  堀江雅楽助  平井左衛門尉  
  海垣 太郎  姫池{路}善太   田中{虫食不知}  
  山内{九郎三郎} 久保{虫食不知}  得久源三郎   
  高須賀左京{右兵衛} 中村兵衛四郎 根川六郎太夫  
  野口又四郎 大篭イ蔵神兵衛尉 中村九郎左衛門尉 
  {二名虫食ニテ名不知} (以上二十騎)」
とあり、高須賀左京(得能通貴本では右兵衛)の名前があり、空白のピースにならないか検討しているところです。
また、戒能通森の女について、旧川内町史が戒能略譜で、高須賀源左衛門の室となったと記録するので、単純に源左衛門堯忠のことと考えましたが、堯倫、堯忠、堯廣が源左衛門を称していることから、実は通森の女が嫁いだのは江戸時代期になってしまう堯忠ではなく、堯章以前の源左衛門某ではないかとも考え始めました。源左衛門は少なくとも堯倫以来の当主の名乗りなのではないかと。
それにしても伊予の歴史は非常に難解です。まだまだ不勉強で八方塞りの閉塞感が否めません。取り敢えず、伊予高須賀家と下総高須賀家の2方向からの調査研究を進めようと思います。

Re: 先祖の地 - むーみん

2016/11/27 (Sun) 18:49:08

そうですね。200年まではないと思いますが150年近くありますね。

「伊予史談会双書5集収録の河野分限録〜天正3年1575年通直期〜」

は鵜呑みにしてはいけません。
中身は結構間違っているのです。
例えば「村上武慶は芸州竹原鎮海山に墓あり」と書きますが
史実は武慶の子の元吉の墓で年代も天正3年ではなく慶長5年
松前の戦いで討死していますのでで、天正3年から30年後のことまで書いてあります。
実際この分限録は天正3年をベースに書き加えたり、脱落したりと転記を繰り返しているのでしょう。イ本の文字が多いので
いろいろな写本が残っていたのでしょう。

ただ肝心な分限帳になっていません。分限帳とは財産目録ですから誰が○○石と書くものですが、天正3年では石の単位ではなく貫の単位だと思います。
石高で管理しようとしたのは秀吉だったと思います。そのために全国で「太閤検地」を行います。
これが朝鮮征伐の為誰にいくら負担させるかが目的だったともされます。

戦国時代までは領地の範囲が重要でしたので、生産高ではなく
どこからどこまでと土地の範囲が重要でした。
よって境界争いが戦争の発端が多いのです。

江戸期初期の分限帳制度が当たり前と思った河野家末裔の方が
分限帳を作り始めたがどこにも石高の記録がないので、河野家の家臣名簿を記憶にたより書いたものと思われます。江戸も中期になるとこの分限録には、河野家の臣でもない南伊予の武士たちも加えてしまいました。

旧川内町史が20代と書いてあるのですから川内町に調べてもらえばすむだけです。
担当部署は旧川内町を担当する教育委員会の生害学習課です。
電話でもメールでも構わないと思います。
ついでに現在の残っている古い高須賀家の名前と電話番号を聞けば教えてくれると思います。
高須賀家の惣本家に連絡がつけばわかる範囲で教えてくれると思います。

他人が電話すると相手は身構えるのですが高須賀が高須賀に電話すると結構スムーズに話は進みます。
また、相手が歴史が分からなくても郷土史家を紹介して貰えれば勝手に調べてくれます。

アドバイス感謝 - 高須賀

2016/11/28 (Mon) 09:23:29

むーみんさん、いつも的確なアドバイスを頂き本当にありがとうございます。
早速、アドバイスに従って、昨夜、東温市役所の市史編纂担当者様宛に、高須賀家に関する質問と郷土史家の方の紹介依頼を、まずはメールで送信しました。
新旧川内町史収録の南方庄屋高須賀家系図の出典や、系図空白を埋める史料の存否、20代とする根拠、ご子孫・郷土史家の紹介などです。
是非対応して頂けるとありがたいです。
ちなみに、以前何度か問い合わせをさせて頂いた愛媛県立図書館の職員の方は、県外居住者の私に対しても、本当に親切にしてくださいましたのでとても感謝しています。
むーみんさんとの縁も、先祖の力添えと感謝しています。

岩名村名主 - むーみん

2016/12/10 (Sat) 20:53:38

野田図書館所蔵古文書に下記の資料がありました。

この四郎右衛門とは高須賀家の先祖でしょうか?

外に江戸中期の願訴状等もありますね。

【02-095】 「差上申済口證文之事」(岩名村光明院内杉丸太売払代金ニ付) 不明() 岩名村願人名主四郎右ヱ門相手善右ヱ門他4名 清水村善左ヱ門殿 状

検索していたら… - 戒能

2017/01/22 (Sun) 22:38:18

こんにちは。検索していたら、こちらにたどり着きました。
高須賀の系図、興味深いですね。
高須賀さん、あちこち問い合わせもされているんですね。

確かに資料を見ていると、何百年後に書かれたとかありますね(^_^;)
私も知り合いに歴史研究家がおり、講座を受け、これは信用できる、これはできない、といったことをいわれるので、気をつけるようにはしておりましたが、信用できると思っていたものでも、違ってたりするのですね(^_^;)

遠方だと特に調べにくいこともありますよね。

家紋について - 一色敏衛門

2016/12/31 (Sat) 13:48:33

高須賀さんの家紋について調べて見たところ面白い事を発見しました。

 丸に左(右)三階松紋は水軍の神、住吉神社が使っている神紋で住吉の神は武門の八幡神の祖神とされていてさらに航海の守護神でもあるそうです。
 南朝が一時浪速の住吉大社を本拠地にした関係からか南朝系の水軍が多くこの神紋を使っていたようです。

 愛媛県各地の海辺には現在も住吉神社が多数存在し平地には土居、得能氏の本拠地土居町の万福寺近く等南朝関係者が居たと思われる場所に熊野神社がご鎮座されており南朝の面影を残しております。

 家紋から推測しても高須賀氏の先祖はやはり南朝熊野水軍と共に伊予の地にやって来たのでは・・・

 参考サイト
 http://aioi.blog6.fc2.com/blog-entry-2308.html

Re: 家紋について - むーみん

2016/12/31 (Sat) 17:32:16

東温市に高須賀家は沢山残っているのですから、家紋の確認ぐらいは現地であれば簡単にできるのではないでしょうか?

菩提寺の墓に新旧いづれであっても紋が刻んであれば、分かりますよね。これはまた、敏衛門さんの初仕事かも(笑)

歴史的には新田家は「丸に一つ引」紋とされますが、
堀口となると、「丸に一つ引」紋と、足利と同じ「丸に二引」紋も併用してくるようです。
大元の流れが同じですから、一色さんちと同じ紋となります。

「右三階松」は途中で併用を始めた「別紋」の可能性がありますね。
併用する場合は、大手柄を立てた時に主家から拝領する「拝領紋」と有力家と結び附いた時にそちらの紋も使用を始める場合があります。肥後の細川氏は足利時代からの同門ですので、時代時代の紋をすべて併用しますので、五つくらいありますね。

有力家は「表紋」「裏紋」「女紋」「幕紋」「旗紋」「船紋」
等を使えわけますので注意が必要です。

ともあれ、伊予の高須賀家が「丸に一つ引」「丸に二引」を使用している家があれば、新田・堀口系の証左となり、「三階松」を使用している家があれば、下総高須賀家と関連する証左となりますね。

それと同じ家でも分家と本家では紋が違う場合もあります。
この場合は時系列に原因を追わないと因果関係が分からない場合があります。

Re: 家紋について - 敏衛門

2017/01/13 (Fri) 23:14:59

高須賀さん南方と井内で家紋調べて見ましたが三階松紋はありませんでした。
三種類の家紋見かけました、片喰紋、扇子紋、違い鷹の羽紋でした。

家紋 - 高須賀

2017/01/14 (Sat) 02:10:25

敏衛門さん、お忙しい中、貴重な時間を割いて頂いてありがとうございます。すっかり甘えてしまい、本当に申し訳ありません。

伊予高須賀家の家紋に「丸に右三階松」は無かったのですね。結果は承知致しました。残念ですが、事実をきちんと踏まえて検討したいと思います。

伊予高須賀家の本家と考えていた、南方村庄屋・高須賀家は、明治時代頃に絶家となり、その菩提寺である東温市所在の常念寺(庵)には、古い墓石が放置されている状態とのことでした。

伊予高須賀家のご子孫に当たるに際しても、相手を的確に選定しないと、情報を入手するのは容易ではないようです。

年始は、ひたすら伊予高須賀家の記載のありそうな史料・資料を当たっています。現在のところ、新たに発見した記載は次のとおりです。

①『伊予温故録・続』(国立国会図書館デジタルコレクション、61コマ)に「高須賀太郎右衛門」

②『上記同』(169コマ)に「高洲賀帯刀」

③『小松邑志・下編・十三』(東京大学史料編纂所所蔵目録データベース、0080コマ)に「高須賀六郎大夫」

これで、戦国時代(末期)の伊予・下総高須賀家の人物で、判明した名前は次のとおりとなりました。

【河野氏家臣】
〔所属不明〕
高須賀太郎右衛門〜天正頃
高須賀伊賀守季永(則之内)〜?
高須賀清太郎季張(則之内)〜?
〔久米郡衆〕
高須賀六郎大夫〜天正頃
高須賀左京(右兵衛)〜天正頃
〔戒能氏家臣〕
高洲(須)賀帯刀〜天正頃
高須賀一郎兵衛堯章(南方)〜寛永頃
高須賀源左衛門堯忠(南方)

【河野氏家臣?】
高須賀正重(則之内)〜?

【長宗我部氏家臣】
〔所属不明〕
高須賀行重(西之川)〜天正頃

【豊臣氏家臣?】
〔大坂の陣参加?〕
高須賀三郎兵兵庫(岩名)〜貞享頃

謹賀新年 - 敏衛門

2017/01/01 (Sun) 21:50:48

ムーミンさん、高須賀さん今年もよろしくお願いします。

本年は高須賀さんのように伊予にルーツを求めている方々とムーミンさんのように豊富に地域史をお持ちの方々の情報共有の掲示板になれと願っています。

謹賀新年 - むーみん

2017/01/02 (Mon) 06:00:07

明けましておめでとうございます本年もよろしくお願い申しあげます。

謹賀新年 - 高須賀

2017/01/02 (Mon) 06:31:31

新年明けましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いします。


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