予州 一色右馬三郎

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予州一色祖 一色右馬三郎を語る
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謹賀新年 - むーみん改 呑舟

2024/01/07 (Sun) 21:49:27

一色さんお元気ですか?貴ブログが更新されませんので心配していました。先ほど私のブログにこちらからのアクセス履歴が残っていましたので安心しました。
「山口県周防大島物語」  屋代の名前で出ています。(笑)

ブログ引っ越し - むーみん改 呑舟

2023/11/09 (Thu) 19:38:00

伊予戒能氏、高須賀氏、河野氏、大野氏は下記にも引っ越ししました。



https://iyooonofa.blog.fc2.com/

ブログ引っ越し - むーみん改屋代源三

2023/11/09 (Thu) 19:33:41

伊予高須賀氏と戒能家は下記に移しました。

野田の高須賀さんよろしく。


https://blog.goo.ne.jp/nonta-oshima-y

伊予高須賀家と戒能家 - むーみん

2019/11/11 (Mon) 12:03:38

高須賀家 戒能家もこちらでも探索しています。


https://8241.teacup.com/kyoudo/bbs/t40/l50?

伊予高須賀家と戒能家 - むーみん

2019/11/11 (Mon) 10:58:19

時折覗いていますが、敏衛門さんの所も開店休業のようですね( ´艸`)
こちらも新ネタが見つからずダラダラしています。(´;ω;`)

最近、伊予高須賀家と戒能家のルーツを探る高須賀さんのブログを見つけましたので、こちらのこちらの高須賀さんも戒能さんも連絡を取ってみれば新情報があるかもしれませんね。
私はツイートはしませんので連絡がとれていません。

http://kyotomichi.hatenablog.com/archive/category/%E8%87%AA%E5%88%86%E3%81%AE%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%84%E3%82%92%E8%BE%BF%E3%82%8B

戒能様へ - 敏衛門

2017/01/23 (Mon) 21:36:17

初めまして敏衛門です、掲示板見つけていただきありがとうございます。
少年のころ戒能君という友達がいたので何か短に感じます。
ご覧の通り当初よりムーミン先生に伊予河野家の歴史についてご指導ご意見をご教授いただける貴重な掲示板です。
不思議な事で東温市井内にお住いの戒能さんも詳しく自家の 古い歴史をご御存知ない方もおり興味をお持ちの方々もいます。

是非、戒能さん何かあればお気軽にご利用下さる事を願っています。

Re: 戒能様へ - 敏衛門

2017/01/24 (Tue) 22:50:25

戒能さん私は興信所ではありませんので個人の先祖由緒については何もわかりませんが調査の為愛媛に来るのであれば道案内位はお手伝いいたしますのでご連絡下さい。

敏衛門様へ - 戒能

2017/01/25 (Wed) 00:23:47

敏衛門様は愛媛の方なのですか?
すみません、掲示板を全部見ているわけではなくて…。
敏衛門様がどういう方かも存じ上げないので、さすがにいきなり不躾なお願いをするつもりはございません。
井内の戒能さんをご存知で興味があるとのことでしたので、何かしら連絡が取れればと思いました(^_^;)
失礼がありましたら、申し訳ございません。

Re: 戒能様へ - 敏衛門

2017/01/25 (Wed) 10:47:38

敏衛門は松山です、東温市の隣で井内まで3~40分というところでようか?
井内の戒能さんは直接は誰も知りませんが先日高須賀さん家の家紋調査で参りました時に少しお話させて頂いた程度です。
基本怪しい人間では無いと自称していますが中途半端な歴史オタクです。

戒能様 - 高須賀

2017/01/25 (Wed) 12:44:05

敏衛門さんは、怪しい(私ではなくご本人の言ですよ)方ではなく、本当に信頼できる方ですよ。遠方で現地調査の出来ない私のために、わざわざ時間と労力を費やして、伊予高須賀家の家紋の調査をしてくださいました。初対面で現地案内をお願いすることに考えもあろうかと思いますが、私なら甘えてお力添えしていただいちゃいますねー。

Re: 戒能様へ - 戒能です

2017/10/17 (Tue) 00:53:04

自分も苗字が戒能です。
興味があり、調べてはいますが、江戸時代以降がつながりません。
ちなみに当方、鷹子在住です。

鷹ノ子の戒能様へ - 敏衛門

2017/10/25 (Wed) 21:50:04

どのように継ながらないのですか?

鷹子の戒能様へ - 戒能

2018/08/26 (Sun) 10:30:28

しばらく見ておらず、大変遅くなりました…。
なんと鷹子在住の戒能様とは!とても嬉しいです。

私の親戚も鷹子におり、2017年に行ってきました。
ただ、苗字はとある事情で変わっていますが。
先祖は、江戸〜明治時代に鷹子で温泉旅館をしていたそうです。(今はありません)
ただそれ以前のことが繋がらず…どこかで繋がれば嬉しいですね。

家系研究再開のご挨拶 - 高須賀

2017/11/18 (Sat) 21:43:53


大変ご無沙汰しております。この一年、出張など拘束時間の多い部署に配置となりまして、仕事にかまけて、なかなか家系研究もできずにおりました。少し余裕が出てきましたので、また研究をゆっくり再開してまいります。

Re: 家系研究再開のご挨拶 - 敏衛門

2017/11/19 (Sun) 12:41:46

お帰りなさい。新発見お待ちしおります。

家系研究 - 高須賀

2017/11/22 (Wed) 20:00:41

ありがとうございます。
残念ながら、この一年、時間がなかったこともあり、余り成果はなく、新発見どころか伊予高須賀家との繋がりも見出せていません。

長福寺一色家過去帳 - むーみん

2017/02/07 (Tue) 10:37:37

長福寺一色家過去帳を見るに、所謂、寺で作成される編年体の過去帳ではないと思われます。

現物は三津屋一色家にあるのではないでしょうか?

寺の過去帳の転記物ではありませんか?少なくても4名から5名の手が入っていると思われます。

第一段階  三津屋一色家に関係する人の戒名を寺か写した。
      
第二段階  第一段階写しに経緯(前文)と解った俗名を付
      け加えた(250回忌の圓明院を追贈した時?異筆)

第三段階  誰かが、〇印を押し、何かと照合した。

第四段階  誰かが、合印を作り、また何かと照合した。

第五段階  誰かが、レ点をつけまた何かと照合した。

このように五人の関与が認められます。

一次段階でなぜ瑞清和尚から始まるますが、この過去帳を作成する時点で三津屋一色家の関係者と認識しているものと思われます。長福寺の前住としてありますので、長福寺の歴代住職を調べれば簡単にわかるでしょう。一色一族か、一色家に引導を
を渡した住職と思われます。

光妙恵大姉は書いた後に追筆したようですね。
飯尾惟清の室と書かれていますので、一色の女の誰かのようです。飯尾姓はこの時代、徳川家の家臣にいたような記憶がありますので調べれば出てくるでしょう。たしか大家の分家だったような・・。

妙弥禅定尼は一色三津屋善右衛門婆と書いてありますので、一色三津屋善左(右)衛門の祖母、すなわち重之の母ではないでしょうか?

となると、隣の、雲州太守義傳栄法大居士は、重之の父の想定
ではないでしょうか。当時の戒名は4文字ですので、「義傳榮法」が元々で、後世に丹波を雲州(出雲)と間違えて送ったと思われます。細かく言うと道号が「義傳」で道号には生前の俗名の一字を採るのがルールですので「義」であいますね。
戒名は「榮法」となります。

重之とされる、「印泉西月居士」も同様に、道号が「印泉」ですので出家した時、印泉をもらい「印泉入道」と呼ばれていたのではないでしょうか?「西月」は戒名です。居士は位号となります。格の高い院号が無かったので、万延元年(1860)子孫の一色範序が250回忌に以前先祖が収めた袈裟を再調して法事を行い、院号の「圓明院」を追贈したのでしょう。この時過去帳に圓明院を加筆していますね。

今、法事でこれをすると、法事代の外に、袈裟代で最低100万円
院号追加で100万円で2~3百万円追加が相場ですから、一色範序は金持ちだったのでしょうね。

最後にこの過去帳が上記の通りであるなら、重之とともに父母も伊予に付いてきたことになりますので、重之は伊予一色家の初代ではなく二代目となりますね。

まず、長福寺の歴代住職で瑞清和尚がどんな人か長福寺で聞く
ことから過去帳の人たちの情報が分るような気がします。

Re: 長福寺一色家過去帳 - 敏衛門

2017/02/07 (Tue) 21:23:32

む〜みんさんこの過去帳は先代一色同族会が長福寺でみつけたものですが読み解くとは流石ですね。

一色右馬三郎の墓は最近まで三津屋の三蔵院宝積寺でした。(現在は西条市墓地整理で旭新開墓地)

三蔵院宝積寺は三蔵師が旧知の右馬三郎を訪ね丹波から三津屋に来て開基したと伝わりますので寺帳は此処が大元ではないかと推測します。

では何故となり村の長福寺に引継がれたのか?

三津屋一色家は早い段階で庄屋職を辞めています、しかし壬生川一色家や周布村一色家は松山藩や西条藩の大庄屋を勤めるなど財力を維持していて特に壬生川一色家主導で長福寺を右馬三郎の菩提としたのではと思います。

三津屋の善右衛門は三津屋一色家が重直の娘の婿として風早二神家から来た人です、子を三津屋一色氏とし善右衛門は三津屋二神家の祖となり現在まで子孫は続いています。

Re: 長福寺一色家過去帳 - むーみん

2017/02/08 (Wed) 05:50:51

と言うことはこの過去帳は正式には長福寺の過去帳ではないでしょうね。

通常、長福寺に菩提が移るのであれば、当時(江戸期)の習慣から

①重之の当初の菩提寺、三蔵院宝積寺が経営管理上立ち行かな くなった場合に同宗に併合される場合(これは寺ごとですね

②子孫が移住の為、寺を替わる場合。

が考えられますが、三蔵院宝積寺が廃寺になった形跡がないので①は考えにくいですね。②は子孫がその後も三蔵院宝積寺の
檀徒であるなら②もなくなりますね。
また①の場合は長福寺側に統合記録が残り、②の場合は宗門帳
に檀徒の受払記録が残りますね。

宗門帳は現在の戸籍の原本ですので、寺は毎日管理更新していました。元々は江戸幕府が庶民管理の為とキリスト教排除の為の制度であり、この住民情報を取り上げるために、明治新政府
は廃仏毀釈の名の元に戸長役場に移し、所謂、壬申戸籍として改編したことは周知の通りですね。

上記の経緯からすれば、重之らの戒名等が分からなかったのか
三津屋一色氏の誰かが、三蔵院宝積寺に来て、過去帳を確認した上で、三津屋一色家の過去帳控として長福寺に奉納したと思われます。重之以前の父母らしきと叔母らしき人の名と坊さんの名があり、善右衛門婆と書いた意味が分かりますね。

三津屋一色家のこの過去帳を写した人は爺婆とその兄妹らしき人と住職の関係と俗名は知っており、戒名だけを三蔵院宝積寺に見に来たとすれば辻褄は合います。

長福寺に一色家の一建立(いっこんりゅう)の寺門がありますが、この棟札に経緯が書いてありませんかね?

余談ですが、長福寺は別の意味で関心のある寺なのです。

この寺は周知の通り元寇の役で名を馳せた、河野通有用の
個人寺ですね。

河野六郎対馬守通有
(1250~1311 7/14)

長福寺殿天心紹普大居士

この時は海印山長福寺とされます。
今の長福寺の寺紋は江戸期の河野家家紋ですから、
通有の時は室町期の河野家家紋を採用していたでしょうが
「古紋」を継承してほしかったですね。


寺を1643年以降東海山に山号を南明禅師が宗派変更とともに
変えたとされますね。
この山号額は一色家の寄進門に掲げられていますので同じころに山門寄進したのではないでしょうか?

寄進は何年とされてますか?

河野一門とされる一柳の殿様の揮毫とされますので、この額の裏にも何か書いてありそうですね。

南明禅師は河野通直四男系、正岡常(盛)元と黒川桃女との間
に生まれていますので宗家河野家への思い入れは強かったと思われます。長福寺本河野系図は彼が色んな古書に当たりながら
書いた形跡があります。「予陽河野家譜」も彼の手が入っているものと思われます。
不思議なのは、牛福通直の死因を「予陽河野家譜」は「病死」とし、「長福寺本河野家譜」は生害(自殺)としていることです。これは生害が正しいのですが、長福寺本の没日は間違いですので、何等かの底書があったものと思われます。

もちろん「河野黒川系図」も「生害」とします。

母親の黒川桃女は福岡県黒崎で死亡していますので、後に南明禅師が供養しています。桃女が福岡に行ったのは、河野家滅亡により行き場を失った、兄弟の黒川五右衛門通貫、と曾我部金右衛門が黒田藩に召し抱えられたことによるものと思われます。黒崎は黒田藩の出城で当時は井上周防守が城主でした。
黒田藩には伊予の残党は結構リクルートされており、黒崎には
久万大徐城主系の大野三兄弟もいました。曾我部は後藤又兵衛らと出奔しています。後藤は後に大坂の陣で名を馳せますね。

伊予の大野、一色が大坂の陣へ行っており、高須賀も同様で、
後藤又兵衛が大将の一角ですので、豊臣方にあれば、彼の配下
にあった可能性が高いのです。

一色の大坂へ行った二人は、豊臣方ですか?徳川方ですか?

伊予は狭い地域ですので、系図上はあちこちで色んな家と出くわせます。

「な~んだ、親戚かい?、なら一杯呑むか!」となります。笑



Re: 長福寺一色家過去帳 - 一色敏衛門

2017/02/08 (Wed) 13:03:18

三津屋善右衛門(重元)は風早二神家の人であり右馬三郎の長男重直の娘婿で、「善右衛門婆」とは右馬三郎の孫娘で重直の娘にあたるのでは?

一色党が大坂の役では青木一重軍として参戦したと伝わります。
それにしても此の時代の事を推理するのは簡単ですが真実にせまるのは本当に難しすぎます。

Re: 長福寺一色家過去帳 - むーみん

2017/02/08 (Wed) 17:57:10

そうですね。憶測でものを言っても仕方ありません。

だから史料集めが大変ですね。私もあくまで古記録に基いて話を展開しようとしています。ただ、古記録が間違いであればその部分は間違いとなりますので衆知の意見が欲しいところです。

さて善右衛門婆を「右馬三郎の孫娘で重直の娘」と想定されていますが、この人は重之の前の前に書かれており、しかも天正14年卒去とされますので、重之よりも重直よりも相当早く死んでいますね。幼子であれば「婆」ではなく、「嬰児か童女」と表現する筈なのですが。謎ですね。

それから、重之公の孫、重光、重政が大坂夏の陣に出向いたとする伝承も、少し混乱しているようですね。

下記のように書いてありますが、一体出典は何だったのでしょうか?


【 川の下方(東側)に東西15間、南北33間の船溜りがあった。ここは元和元年5月 8日に重之公の孫、重光、重政が二百余名を率いて大阪夏の陣に向かった港で ある。】

混乱①元和元年5月8日は、前日には大坂城は落城しており、8
   日に出ても間に合いません。

混乱②「青木一重軍として参戦」とのようですが青木一重は
    夏の陣には参戦していません。

混乱③元和元年5月8日は実際にな無く、正確には慶長20年5月
   8日でなくてはなりませんが、後世に逆算して元和であろ   うとしたものと思われます。

   元和と改元されるのは戦い
   が終わった2ケ月後の7月13日です。一次史料に基かず
   に後世に編纂されたものから作成していくとこのような
   間違いが散見されますので、その資料は信頼性は極端に
   低くなりますね。東大史料編纂所も、愛媛県史も山口県
   文書館等の権威あるところでさえ、編年目次では年中改   元を無視しますので、それらを引用した学者も大威張り
   でまちがって書きます。

細かいことを言うと上記の③点が間違いですが、夏の陣には出かけて、若干25才で大坂の陣地で5月12日に討死していますので、5月7日にはもう雌雄は決していますので、青木一重の陣ではなくても、豊臣方の誰かの陣に居て、徳川方の残党狩で殺されたと思われます。ただこちらは推定です。

Re: 長福寺一色家過去帳 - 一色敏衛門

2017/02/08 (Wed) 23:06:32

むーみんさんは「憶測でものを言っても仕方はありませんが」とおっしゃいましたがこの掲示版では良いと思います、他人の誹謗中傷さえなければ・・所詮数学のように正確な答えは歴史ではめったにありえないと思っております特に一般の家系では。
伊予守護であった河野家のことでさえも僅かな一次史料をもとに各種ある伝承で皆さん伊予河野家を語り合っているわけですから。

本題ですがむーみんさんQ&Aでお答えします。出来ましたら(次回からは一問一答でお願いします)

まず善右衛門婆を「右馬三郎の孫娘で重直の娘」と想定されていますが、との問ですがその通りです、私が善右衛門のキーワードで木屋一色系図から直感で勘違いをしておりました答えは分かりませんが何故か当時の景色は見えるような気はしますと訂正致します。

◎「重之公の孫、重光、重政が大坂夏の陣に出向いたとする伝承も、少し混乱しているようですね。」にお答えします。

●全然混乱しません、なぜなら下記の通りです。

◎混乱①元和元年5月8日は、前日には大坂城は落城しており、8
日に出ても間に合いません。

●その通りです、なぜなら遅れて行ったからです。

◎混乱②「青木一重軍として参戦」とのようですが青木一重は夏の陣には参戦していません。

●その通り一重公は夏の陣には参戦していませんが養子の駿河守正重が青木軍の総大将として豊臣勢として参戦していますそのような事から青木一重軍と書いた訳ですが。文章の齟齬はお許し下さい。

◎混乱③元和元年5月8日は実際にな無く、正確には慶長20年5月
   8日でなくてはなりませんが、後世に逆算して元和であろうとしたものと思われます。

●細かいですね!どの文面を見ておっしゃてるのかわからないのですが右馬三郎400年祭の資料であれば極最近に参加者に配布する資料として作成したものかもわかりませんが・・・

◎細かいことを言うと上記の③点が間違いですが、夏の陣には出かけて、若干25才で大坂の陣地で5月12日に討死していますので、5月7日にはもう雌雄は決していますので、青木一重の陣ではなくても、豊臣方の誰かの陣に居て、徳川方の残党狩で殺されたと思われます。ただこちらは推定ですとの最後の書き込みにお答えします。

●むーみんさんはっきり申しまして推測の幅が狭すぎます、重政は残党狩りにあい殺されたのではなく切腹と伝わります。
 世の中今も昔も推定外、想定外ありますので殺す殺された等恐ろしい推測はいくら昔の人であろうと間違っていると化けて出てくるかもしれませんのでご用心めされ下さい。

冗談はさておき時々歴史の日時にこだわる方がいますが何百年も昔の事ですので基本推定、推測しかないのではないでしょうか?








Re: 長福寺一色家過去帳 - むーみん

2017/02/09 (Thu) 08:48:50

別に、同好の歴史好きな一色さんと喧嘩調で詰問する気はありませんのでQ&A形式で一問一答式はそぐわないと思っています。前後の認識を示させて頂いた上で混乱しそうなのものは①
②③の形式で独立させてあります。

何か批判されているように受け取られたら困るのですが、一色ブログで間違いや追記があれば、教えて下さいと一色昇二さんが書いてますので、間違いと思われる部分のことを書いています。昇二さんと敏衛衛門さんが、同一人物か否かは当方はわかりませんので、同一系のブログと判断し、こちらに書いています。

 元和元年5月8日は【龍敬神社】の説明で書いてありましたので、
 改元資料と確認した上で説明しています。

それから、

「●その通りです、なぜなら遅れて行ったからです」

と「重光、重政が大坂夏の陣に出向いたとする」話の
答えですが、これは「後出しジャンケン」です。

一色ブログと他の歴史書を見ながら見解を述べていますので、
今回のUP分は初めてではないでしょうか?

出来れば、小出しではなく全部をメールして頂けませんか?
でないと情報の共有は出来ないと思われ、今後も間違った解釈
をしかねません。

別件ながら、「青木民部少輔組高付」が慶長18年1月10日に提出されているが、背景がよく分からないと記されていますが、
これは全国の家康配下に対し、分限録を駿府に在った、徳川家康の重臣本多正純が提出させた分限録と思われますので、所謂、1月10日現在で前後の変動は認識していないと思います。
青木領一万千三百石で届けでたものと思います。

長州毛利家も同様に、慶長18年、

「閣老本多正純の意見により両国の石高を三十六万九千四百十一石三斗一升五合と幕府に上申す。これより公称石高となる。
内、長府領高四万七千八百二石六斗四合、岩国領高三万七千百二十九石二斗三升 【草舎年表】」
と申告し公称石高となります。

これらを根拠に後に徳川幕府は普請の割り当て額を決めたものと思いますので、各大名は少なめに申請してあると思います。

何百年前のことであっても同時代の周りの関係者を探索すると
史実が見えてきますので、推定の幅は少なくなりますね。

愛媛県の河野関係はおっしゃる通り、僅かな一次史料と後世の編纂物で河野家賛美をしていますので、これは「河野教」の教徒の人たちですね。伊予史談会の景浦親子は冷静な判断をしていますので河野教徒からは未だに、批判を浴びていますね(笑)
現在の伊予史談をリードする人たち(名は秘します)が実態は分っているのでしょうが、講演すると河野家ヨイショが多いですね。あれは、小遣い稼ぎには欠かせませんからね(笑)

まあぼちぼちまいりましょうか?
私は小遣い稼ぎにはならないのですが(大笑)

Re: 長福寺一色家過去帳 - 敏衛門

2017/02/10 (Fri) 12:51:04

むーみんさんは小遣い稼ぎでなく歴史本でも書いて大稼ぎですか?
私は歴史ガイドをして小遣い稼ぎをしたいと思っておりますが其の世界も縄張りがあるようで組織に属さないと一匹狼ではすぐに潰されてしまいますね!

本題ですが一色昇ニさんと敏衛門は勿論別人です。

前項の西条一色系図伝略記は長福寺所有で私物ではありませんので公開はご容赦下さい変わりと言っちゃなですが南明禅師の一色一兵衛に宛てた法号を貼ります。(長福寺発行の南明禅師より抜粋)
一兵衛は周布の初代庄屋で三津屋同様長福寺の隣村です、長福寺は北条ですが当初は北条の領主も一色氏でした。
三津屋・壬生川・明里川・周布・北条辺に勢力を張っていたようです。





南明の書 - むーみん

2017/02/11 (Sat) 07:10:16

南明禅師の法号書のUP有り難うございます。

よく分からないので教えて下さいませんか?

現在、市の重要文化財となっている、南明禅師の手になる「長福寺本河野系図」の写真を見ているのですが、ご提供の法号授与の南明書と、南明禅師自筆とされる、同河野系図の筆跡が違う感じがするのですが、法号の書は「原本」でしょうか?

写しのような気がしますが、よくは見えませんがハンコまでついてあるので、よくわかりません。

ハンコですが、重要文化財の最初と最後のページに南明の個人印が2種押されていますが、この法号書の印とどちらか合ってますでしょうか?

細かいことが気になるくせですみません。

Re: 長福寺一色家過去帳 - 敏衛門

2017/02/12 (Sun) 12:58:55

一兵衛宛の法号は南明禅師41歳の時に書かれました、遺訓は69歳南明禅師人生最後の年京都で書かれた書です。
当たり前ですが年齢によて字風はかわりますよね!

Re: 長福寺一色家過去帳 - むーみん

2017/02/12 (Sun) 15:04:50

なるほど、年齢による字体の変化なのですね?

長福寺本河野系図は何歳の時の作でしょうか?

「河野系図」と「遺訓」の南明の運指は同じですが、「法号」の運指とは異なりますね。

系図と遺訓の南明花押は違いますが、花押は新規一転切り替えることがありますので、何パターン在っても良いのですが、
書風は変わっても運指はあまり変わらないのですが、南明禅師はやっかいですね。

時系列に見て行かないと分かりませんね。南明禅師は楷書体と草書体を使い分けますので、それぞれに特徴がありますね。

年代毎に違う見本は他にないのでしょうか?

Re: 長福寺一色家過去帳 - 敏衛門

2017/02/12 (Sun) 15:34:46

ご存知のように「予章記」「河野系図」は得能弥太郎が安芸国から伊予へ持ち帰り黒川通廣未亡人妙寿尼の元で病死し同尼に託しさらに娘の桃女に託し其れを一子南明に伝えた河野本流のものですね。
南明が現本が蝕まれ朽ちてきたので写したのが33~37歳慶安年中の1648~52年と言われています。
筆耕生に命じて写したとも言われています。

長福寺本河野系図 - むーみん

2017/02/13 (Mon) 17:08:29

中世の伊予史はよく分からない!

この予章記や河野系図が「河野本流」と断じる根拠は何か教えて頂けませんか?

確かに、長福寺本は多く転写されて、現在出回っている河野系図の8割方がこの形式を踏襲します。よって伊予史談会は「流布本」と分類しますね。所謂、孝霊天皇を元祖とする河野系図ですね。これに対しニギハヤヒを元祖とする、河野系図が別にあり、こちらも同じく河野本流を主張する、松山の「天徳寺本河野系図」ですね。途中の登場人物は殆ど重複しますが、元祖が違うと後世の子孫たちの展開が変わっていきますね。

長福寺本と言われるから、昔から通有時代の長福寺にから伝来するものを、南明禅師が転記編纂したものと今まで思っていました。今回得能弥太郎なる人物が隠遁の地竹原から伝来の「予章記」「河野系図」を持ち帰ったことで南明禅師が修復再調してくれたものとされますね。

となるとこの本の出所が気になります。

得能弥太郎とは一体どのような人物なのでしょうか?
得能家は河野四郎通信の庶子家と伝わりますが、この弥太郎とは得能家の中でどの位置に属していたかわかりませんか?
弥太郎は得能家の通り名と思われます、諱は分りませんか?
帰農したのか後に浮穴清七と改めたとは思いますが。

牛福通直に臣従して竹原までいって、通直没後伊予に帰ったとしますが、なぜこの本流とされる河野系図は最後の殿様、牛福通直公の命日と法名が系図では違うのかわかりません。

一般的には牛福通直の命日は

天正15年7月14日とされます。これは「萩藩閥閲録」によると、7月13日に生害(自殺)したので、母親が慌てて、湯月城から渡海し、葬儀を14日にしたからとし、「予陽河野家譜」や母親が翌年届出た「高野山上蔵院過去帳」も14日とします。現在流布される多くの河野系図は14日で統一されます。
これに対し、通直の命日に立ち会ったであろう得能弥太郎が持ち帰った「河野系図」では天正15年3月7日卒と書かれてあるようなのですが?底本が間違っているのでは?と思います。

法名も、竹原長生寺では、『長生寺殿月渓園公大禅定門』とします。遺髪を伊予の天徳寺に持ち帰って法要をし直すと『天徳寺殿月渓宗園公大居士』と寺殿号を変更してしまいます。これに対し、長福寺では『長生院殿玉峯宗光大居士』としています。法事の度に戒名(あの世の名前)を変えられると閻魔大王は困るのですが(笑)

長福寺の河野系図は黒川家と正岡家用の系図と思われます。

河野得能家の河野系図は天徳寺本のようです。こちらの方が古いですね。太平記の底本とされる書を秘蔵していることからも天徳寺史料の方が信頼性が高いとされる所以です。

室町末期に河野家本流としての系図は「高野山上蔵院本」です
が、これは奉納の為、室町末期に転写したものと思われます。

牛福通直から譲りうけたとする河野本流本は「築山本」とされます。

それぞれ皆中身がバラバラで我々を悩ませます。

南明禅師については、黒川家をもう少し掘り下げないとわかりません。

本来は同じであったものが、後世に色んなものが付け加えられてぐちゃぐちゃになった感じですね。

伊予河野一門は訳が分からない所以です。

Re: 長福寺一色家過去帳 - 敏衛門

2017/02/13 (Mon) 22:26:05

何故南明禅師伝来の「河野系図」・「予章記」が世にある十八将家のものと違うかはわかりません「本流」といわれるのは59代通直の所有物であったからではないでしょうか?

河野一族の得能弥太郎とは57代河野通直娘で黒川通廣の未亡人妙寿尼と同じ乳母に育てられたとありますがそれ以上のことはわかりません。
得能の領地は戒能道後の南隣にある樽味で道後湯築城まで徒歩10分といった所です。
得能弥太郎について詳しいことがわかったら教えて下さい。
弥太郎(浮穴清七)は59代通直に侍して安芸竹原に隠退したが天正15年通直の没後伊予に帰りその時持ち帰ったのが河野本流の家系図と「予章記」です。
その後弥太郎は妙寿尼の小松町大郷(おおご)香積庵で病死したと伝わります。
・・・む〜みんさん以外に見ている方がいるかもしれませませんので重ねて書いています・・・

弥太郎は系図類を妙寿尼に託し其の後娘の桃女に託しました。
同女は其れを子の南明に伝え虫ばまれて朽ちた為慶安年中1648-52年に改写し現在に至るわけです。

57代通直の血を引継ぐ正岡常元とやはり通直の血を継ぐ南明の母桃女と黒川正岡系河野家ご一家オールキャストとですね!
南明は予章記と共に秘蔵しておけば後世、寺門建立の一助になると河野通宣・通直の書跡三筆を南明の弟子玉潭に一時預けることなど河野系図巻末 に記されているのですが内容や現在何処にあるのかはわかりません。



長福寺本河野系図 - むーみん

2017/02/14 (Tue) 12:20:58

59代通直の所有物とは思えません。

五十九代通直とは自害した牛福通直のことと思われますが、牛福没後、跡目として、宍戸景好を河野家養子としますが、彼は建前上、河野通宣の子、河野大蔵越智宿祢通昭の子と養子縁組で牛福通直の養子ではない形をとっています。よって河野宗家は秀吉へ河野の名をはばかり、室家の名、築山を名乗りますのでこちらに河野宗家の系図と什器が引き継がれたとされます。こちらが、築山本予章記や筑山本河野系図とされるものですね。

得能弥太郎なる人物は不明です。

河野徳峰氏が根拠とした出典が知りたい所です。得能家の通名が「弥太郎」と思われますので、諱(俗名)が分からないと人物が特定できませんね。牛福通直没後、伊予に戻った人たちも多く、天徳寺、長福寺、竜隠寺に寄宿した人たちもいてそれぞれ自家の系図を持ち帰ったものと思われます。それぞれは河野の分家ですので、すべて○○流河野系図となるのでしょうね。

それを後世の人は○○本河野系図とタイトルを付けたことからすべて宗家系図と誤解したのでしょうね。

本来は〇〇寺に伝わる、〇〇流河野系図とタイトルをつければ
よかったのでしょうね。河野家のように長命の家では、南北朝、応仁の乱、河野家内訌、等で家により一門であっても立場が違いますので、系図が変容していきますから、どの寺かではなくどの家の誰が編纂したかで系図が変わりますね。

長福寺本は南明が相当加筆して、実家の正岡、黒川家用に編纂しなおしたと思われますので、得能家の得能河野系図流の天徳寺本と違う形態になったと思われます。

現在の河野系図の大半は江戸期に相当いじくりまわされて、子孫家の中でわけの分からない系図に成長しています。

南明禅師の軌跡も6年前から、黒川、正岡家に絞って、伊予の黒川さんと共同で探索していますが、よく分かりません。

「南明禅師・その生涯と墨蹟」の14Pの略系図も疑問点が以前から多いので話題になっています。色んな伝承があり辻褄が合わないのです。本家本元の黒川さんが訳がわからないと現在探索中断されています。

「南明禅師」の書で分からない点がありますので分れば教えて頂けませんか?

①P14.「南明の父正岡常元民間に下り、慶長年間村上右衛 門と共に安芸の福島正則に仕えた」する出典は何でしょう  か?

②慶長16年妻子を村上に預けて移り長州に移り毛利家に仕え
 とされますが、この村上とは誰のことなのでしょうか?

③毛利家に仕えていたとされる、正岡常元が、徳川方の毛利家
 に偽り、豊臣方を助け慶長19年に大坂城に入り落城の出典は
 何なのでしょうね?

④南明は安芸のどこで生まれたのでしょうかね?


どうも福島正則の軌跡とは一致しない気がするのですが?

何か、伝承が混乱しているようですね?

断絶した家は現在では分りにくいですね。
   



Re: 長福寺一色家過去帳 - 敏衛門

2017/02/14 (Tue) 15:05:53

織田信長や明智光秀クラスでさえ謎がいっぱいありますから河野家のようにローカル守護の伝承は謎だらけでも不思議ではありませんよね。
明智光秀のように御子孫が何年目の真実とかのタイトルで出版して世に問う作品ではなく長福寺が南明禅師の生涯と墨跡を主とした作品ですので伝承通り周辺人物を登場させているんでないですか?
①~④については敏衛門レベルでは分かりません。む~みんさんの方がご専門でしょう。

長福寺本河野系図 - むーみん

2017/02/14 (Tue) 17:51:02

書かれた人が、長福寺の住職さんなので、当方は①~④までの
出典にお目にかかったことがないのです。しかも面識もありませんので、ヅケヅケ聞くのも失礼なので、一色さんなら檀家と思われますので確認できるかなと思っただけです。

南明禅師墨蹟 - 敏衛門

2017/02/13 (Mon) 19:35:57

南明禅師筆 1681年66歳の法号(下)盡外恵最

Re: 南明禅師墨蹟 - 敏衛門

2017/02/13 (Mon) 19:54:32

南明禅師筆 年代不明 佛三世云々

Re: 南明禅師墨蹟 - 敏衛門

2017/02/13 (Mon) 19:59:01

南明禅師筆 1684年10月15日69歳 遺訓 通似宛

Re: 南明禅師墨蹟 - むーみん

2017/02/14 (Tue) 10:39:31

敏衛門にいつもおねだりばかりするのも気がひけましたので良い参考書がないかと捜しましたら河野徳峰さんの「南明禅師」がありました。NETで注文したら、昨日、松山市の写楽堂から届きました。こちらが敏衛門さんの出典ですね?

一色法号書もありますが、書風は五の「龍華院像賛文」と三十の「法語 仏三世云々」サインと似ていますが、「ノの部」が
必要以上に左下がりの筆跡が見当たりませんので、何とも言えないですね。

もちろん、一色市兵衛重昌の戒名に「棙宗」の文字は入っていると思われますが、どのような戒名になっているのでしょうか?

生前に法号を頂戴したと思われます、明応2年に出家されているのでしょうか?

「棙宗」とは艱難辛苦を乗り越えて先祖の御霊を貴ぶ、崇高な人と言う意味と思われますので南明禅師も一目置いたのでしょうね。

Re: 南明禅師墨蹟 - 敏衛門

2017/02/14 (Tue) 12:09:30

そうですか「南明禅師」よくみつかりましたね、古本屋にもあるんですね。
この本(長福寺版河野系図・予章記)に興味がおありのようでしたのでお送りしようと思っていたところだったんですよ!
スキャンしてUPするのもめんどくさかったし。

敏衛門もたまに写楽堂で購入しますが伊予関係の蔵書は少なくていい値段付けているのでもっぱらロープウェイ通りの 「古本の愛媛堂」で購入します。
伊予歴史関係の蔵書が多くお手頃価格で販売していますので松山に来るようなことがあれば是非寄って見て下さい。

仏三世云々はいつ頃書かれたのわかりませんよね!
南明は遺言まで一色氏に残しているので相当関係は深かったことがうかがわれます、贋作を一色氏も作る意味はないでしょう。
南明が生きていた時代一色氏の様子が「文字」として残されている事実が伊予一色子孫として嬉しい限りです。



吉川家家紋拝領 - むーみん

2017/01/29 (Sun) 12:59:36

一色ブログに

『毛利勢の伊予支配は二年で終わった、この時、吉川元長より吉川家の紋章である丸に三引き紋を賜り現在も全国一色族の中で唯一同家紋を使用し続けている。』

とありますが、伊予一色家と吉川元長との接点はいつ、どこなのでしょうか?

分かりましたら、出典とともにご教授願いたいのですが?

Re: 吉川家家紋拝領 - 敏衛門

2017/02/03 (Fri) 22:11:44

お尋ねの件は松山一色氏のルーツ研究を長年続けられた故一色薫雄氏の残された資料が元になっています。

吉川家との関係は来島通総勢として秀吉の四国責めに参戦したと伝わります。

家紋 の件は私の研究成果です。

突っ込まれどころ万点ですが最近は一色氏についてご無沙汰ですのでお手柔らかに!



Re: 吉川家家紋拝領 - 敏衛門

2017/02/03 (Fri) 23:10:58

一色薫雄氏研究資料を見ていましたら戒能さんがありました。

戒能氏は道後の地頭?も兼ねていたようですね。

伊予一色伊予移住 - むーみん

2017/02/04 (Sat) 18:08:21

いえね、高須賀氏、戒能氏のを探索をしているとどうしても他家の動向が出てきます。これらは「愛媛県史」にあるように色んな古文書や古書をベースに作成されていますので同じ時期に違う表現や違う人がまま出てきます。これらを出典の質を見極めながら史実を探求するしかありません。

今回ふと、伊予一色氏はなぜ伊予に来たのかまた気になりました。ブログでは下記のようになっていますね。


 『天正8年(1580年)、戦国武将一色右馬三郎範之(後の一色右馬三郎重之公)は丹後国
 宮津城(現・京都府宮津市)の落城前に外祖父である河野通泰(村上通泰)との縁により、
 子の重直、重次(6歳の双子)、家臣赤澤某、伊藤嶋之助、佐和小十郎等十余名を連れ、
 豫州宇摩郡へ来た。
  一族は当時新居郡の旗頭であった高峠城(高外木城・タカトキ)石川通清氏の食客となり
 新居郡萩生村に居住。その後、桑村郡旦ノ上村に居住。そして、旦ノ上村青野六太夫只正の
 娘を重次の嫁に迎え縁者となった。』

ここで気になるのは、

①重之の母は来島通康の娘(嫡女はいないのでこの場合は養女と思われます)が実は誰の娘で、いつ何処で結婚したのでしょう?

②宮津城の落城前には結婚しており、子も居たことになっていますが、宮津城の落城はいつでしょうか?

③また村上通康と一色氏との接点が良く分かりません。
 どのような言い伝えになっていますでしょうか?


④過去帳にある、前雲州太守義傳栄法大居士(慶長9年6月23日没)はどなたでしょうか?


吉川家家紋拝領はもう少し吉川家を調べます。
吉川元春は天正13年の伊予征伐の時、一時的に豫洲勢を先鋒には使っていましたが、直臣扱いはしていません。
家紋を親族以外に与えた記録はないのですが?

天正8年も動乱の年で

3月9日 毛利輝元の將草刈重継、羽柴秀吉の將隠岐土佐守及び宇喜多直家の兵を美作信山城に邀撃して、土佐守を斬る、是日、輝元、重継の軍忠状に證判を與ふ


閏3月に秀吉は寝返ったばかりの、別所長治を通じて村上吉次宛ての調略の手紙を送る【和歌山藩藩中古文書】

初めて来島村上の調落を始めます。

4月24日 信長、羽柴秀吉の、小早川隆景を備中高山に包囲せんとするを聞き、長岡藤孝、一色満信に其赴援を内命す

同日、羽柴秀吉、弟長秀(秀長)をして、但馬を平定せしむ

6月5日 羽柴秀吉、宇野民部大輔を播磨宍粟郡の城に攻めて、之を敗走せしめ、尋で、因幡、伯耆の国境に進む、因幡の諸氏、降る

9月 来島通総が風早郡柳原に攻め込む。

等になっていますので、一色氏が伊予にきたのは5月以降と思われます。来島通康の許に来たとするなら、河野宗家牛福通直勢と家督争いの真っただ中でその応援の可能性がありますね。
アンチ河野宗家へ来島村上、石川、二神らでしたから歴史上は符合すると思われます。
一色氏が通康の養女と婚姻関係を結んだとすれば、天文9年以降と思われます。双子の子が生まれたのは1573年前後と思われ
ますので、嫁を貰ったのはそれ以前ですね。

嫁さんはどこの誰となってますでしょうか?

戦国期は情報が錯そうして分からないことが多すぎますね。





Re: 吉川家家紋拝領 - 敏衛門

2017/02/06 (Mon) 20:34:11

私はが言うのも何ですが伊予一色氏は何故この地に根付き其れなりの勢力を築いたのかハッキリした一次資料は見つかっていません。
しかし松山一色氏は知多半島から西条一色氏は丹後から今治は知多半島松山一色氏一族の一人がが江戸時代を通じて今治藩家老として勤めたと伝わります。

松山一色範直の妻は村上通泰の娘(養女)一色右馬三郎の母は通泰の娘と共通点があります。

①判りませんが妻は丹後水軍の猛将桜井家の娘です。

②これもよく判りませんが天正6年の上宮津城(一色氏重臣の居城)、若しくは中山城ではと推測しています。

③松山一色氏の場合は足利義昭側近で梅仙軒霊長が取り持ったとつたわります、丹後一色氏は鞆幕府足利義昭の反信長勢として吉川元春と同盟関係にあった。

④判りませんが長福寺の過去帳ですので亡くなった順番で併記していただけでは ないでしょうか。

周辺資料が増える程あれやこれやと推測ばかりで悩ましいかぎりです。



河野家と足利幕府のかかわり - むーみん

2017/02/07 (Tue) 08:47:18

そうですね、調べれば調べるほど色んな資料が出てきて悩ましくなりますね。その度に資料の真贋と出典の確認に追われます。出典が一次史料でない限りは「史実」とは認めにくいですが、せめて一次史料からの「親引き」まででしょうね。
孫引きや編纂物、系図、軍記物が出典の場合は少し距離を取る
必要がありますね。ましてや、後世の解釈物となれば「推定物」として作者や作成目的や作成背景と作成時期の確認が必要ですね。

伊予一色氏が伊予とのかかわりは足利将軍家を中心に行われてきたと思われます。梅仙軒霊長や一色藤長、上野信孝が仲介役と思われます。
伊予河野家が足利将軍家とかかわるのは足利尊氏からですが、室町末期では河野弾正少輔通直から特に身近になったと思われます。弾正少輔通直は

天文9年 4月12日 幕府、伊豫守護河野通直を相伴衆と爲すに依り通直、禮物を進む【大館常興日記】

と在国ながら相伴衆となります。室町幕府も衰え始めていますね。
私が一色氏が通康の養女と婚姻関係を結んだとすれば、天文9年以降と思ったのはこのような経緯からです。ただ梅仙軒霊長がかかわっていたか否かはわかりません。河野弾正少輔通直の跡の河野四郎左京大夫(通賢)通宣と梅仙軒霊長や一色藤長、上野信孝が文通していた書簡が残っていますので、河野家はあくまで足利義昭を将軍として敬っていたと思われます。よって、信長やその家来秀吉の誘いに乗らなかったのでしょう。

河野四郎左京大夫(通賢)通宣は「左京大夫」任官を足利将軍にお願いし、めでたく「左京太夫」と10月28日叙任された旨、上野信孝から知らされます。この時、梅仙軒霊長の口添えが特に有効であったと強調しています。これらのことにより、通宣は将軍家を主君としていたことが分かります。

これらの経緯から、子無き通宣の跡取りにしようとしていた来島通康のことは将軍家側は知っていたと思われます。よって河野家を足利側に引き止めようと、来島通康の女(養女)を求めたとしても不思議ではありませんね。

ただ情勢が変わったのは、来島通康を河野宗家棟梁とは認められず、通宣は(~1581 7/4)病死します。通宣室は(宍戸隆家・毛利元就嫡女・しんの娘・春禅院)ですので、毛利家の影響が河野家を支配します。よって来島通康は部外者扱いとなりますので、子の通総とともに、河野牛福通直家と敵対行為をとるようになり、度々反乱に及びますね。最後には秀吉の誘いに
乗り河野宗家をうらぎり秀吉に走りますね。来島にいることが出来ずこの時、京都に逃げ出します。

来島通総は天正7年から河野家に反逆し、天正8年9月には柳原に攻め込みます。天正10年には秀吉と手を結びます。この時から伊予にいることが出来ず京都に逃れたとされ天正13年に優勢となった秀吉の毛利への命令で能島村上を追い出し帰郷します。

この間、伊予一色家はどこで誰の許にいたかが分れば謎がとけそうです。

足利義昭は室町幕府を潰そうとする信長、秀吉が嫌いですからその家臣一色藤長を通じて、河野牛福通直とやりとりをしています。牛福が宇都宮を捕えた時の礼に対する返事は藤長から来ていることからもわかります。

伊予一色氏が伝承の通りだとすると相当数奇な運命をたどった
ことになります。

①河野家惣領となる筈の通康に娘と婚姻関係を結んだので伊予 に渡った時は河野宗家の敵方になってしまっていた。

②仕方ないので石川家に食客となっていたのに、石川は土佐長 曾我部側となってしまった。天正の陣で戦ったが、小早川、 吉川の猛攻に耐え切れず、石川嫡子を土佐に逃した上で金子
 たちは玉砕したが、なぜか食客の一色は生き延びた。

③この時、一色重之は石川家を離れ、通康の子、通総に従い
 戦った。よって通総を指揮した、吉川元春から吉川紋を拝領
 し現在にいたる。

のような流れになりますが、相当無理があり伝承に混乱があるように思われます。

足利義昭周辺を追った方が、史実に近づけるかもしれませんね。

長福寺過去帳はもう少し検討してみます。




Re: 吉川家家紋拝領 - 敏衛門

2017/02/07 (Tue) 20:29:30

む〜みんさんご見解ありがとうございます。


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